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<Web ちゃっきりむし 1964年 No.2〜4>

● 目 次
 井上?斑:ルリタテハ  (No.2-1)
 梅沢賢造:大札山採集報告  (No.2-2)
 北条篤史:テーマ「 夏 」オオムラサキ −夏の日の追憶に− (No.3-1)
 匂坂友和:コンニチワ蝶さん ◆夏の水窪◆  (No.3-2)
 にしやまちょう子(西山保典):マンガ虫 (No.3-3)
 前田邦夫:わがバラ色の受験生活 (No.3-4)
 井上?斑:売ってやるから昼間来い (No.3-5)
 梅沢武夫:虫一同より虫の虫諸君へ ◆真夏の夜の夢より◆ (No.4-1)
 LABIA(No.4-2)
 井上?斑:プライバシー (No.4-3)
 イモムシゴロゴロー(平井剛夫):「どうだい,今日は釣れたかい」 (No.4-4)

 ちゃっきりむし No.2-1 (1964年3月30日)

  ルリタテハ 井上?斑

 風は強かったけれども,こころよい青空だった.朝方わきおこった積雲が,その強い風に吹きよせられたのか,東の足立山の空にかたまっていて,空のほとんどはぬけているような青さだった.じいさんの頭も前の方から強い風があたると,こんなふうにして後へ毛がよってしまってハゲるのだろうと思った.
 今日は,友だち二人と昆蟲採集に行く約束がしてあった.何もこんな風の強い冬の日にと,思うかもしれないが冬は冬で,越冬中の虫は動作がかんまんで採りやすいし,また冬しか成蟲にならない奴もあっていそがしい.われわれは名づけて冬季採集と呼ぶ.
 道具はねじまわしにネット,それから殺蟲管.ザックは三人のうち一番体の大きな僕がしょった.
 目的の雑木林に最も近い駅で,電車をおりた.駅から小一時間歩くと,道は林に入る.林の中は風がなく,時々姿の見えない小鳥が鳴いていた.あわい日の光がまだらのしまを作って落葉の上を照らしていた.そんな所にはヒラタアブがこまかく翅をふって低い宙に浮いた.
 「たいそう 温か」
 T君が上着をぬいで,ひょいっと生意気に肩にかつぐ.僕もジャンパーのボタンをはずしてポケットからキャラメルを出した.
 林をぬけるとだんだん畑が前にひらけた.僕たちはだんだん畑の間に付けられた小道を登っていった.道はなかなか急であった.
 しばらく行くとゆるやかになって農家が一軒あった.ワラぶきの屋根,広い庭,それよりも,僕の目にとまったのはその広い庭に翅をひろげている蝶であった.
 ルリタテハ!僕は心の中でさけんだ.だが,ルリタテハに気がついたのは僕だけではなかった.T君ネットがひくっと動くと彼はかけ出した.僕も,僕もおくれてはならじとかけよった.ふった.広い庭の中央で,白いネットがぶつかり合って,その間から蝶は飛びさった.あとには,まの悪い二つの顔がおせじ笑いをしただけであった.
 「あんたら 何しとるんか?」
 T君も僕も、同時に首を動かした.農家の縁側にしらがのバアさんがぷかぷかたばこをふかしている.しらがの中にはまだ黒いのも少しはある.
 「チョウば採っとる」
 とT君が答えた.バアさんは「はア?」と聞きかえしたので,今度は僕が「チョウチョを採っとるんです」といった.
 「あゝ チョッカイば採りなさると.そいつらなら朝っぱらから来とるんヨ.ワイら虫集めじゃな」
 T君は,
 「あゝ チョッカイ.チョッカイ」と調子をつけたので皆が笑った.
 庭のすみに立ちすくんでいたS君もよって来た.
 僕たちは,このバアさんにお茶をごちそうになった.つまみあんセといって出された白いハッカあめが,黒いぼんの上から一つずつ消えた.さっきからバアさんのひざの上にねむっている大きなネコが,時々ずるそうな目をあけて僕の顔を見た.ポンと,バアさんがきせるをたゝくと,火鉢の中から青い煙が日光にあたってヘビのようにゆらめき,暗いいなかやの天じょうにすわれていった.バアさんは,昆蟲は学校へ出すのかとか、標本はどうしてくさらないのかと聞き,それに対して僕たちはこうごに答えた.
 しかし話しはそれで一応切れてしまうと,一つ大きく息を呼吸して,庭のすみにゆれているノギクを見てぽつりといった.
 「オイにもな,孫がおったんじゃが・・・」
 「――――――」
 「孫は学校がようでけよった.はじめは上の学校ば行くんいうて勉強しとったんが,お父ッつあんに,いなかもんが学校出ていけんすっとな.いわれてのう,中学をおりると東京へ働きに出たんけ」
 僕たちはだまって聞いていた.時おりふんとか,それでどうしたのとか口をいれたが・・・.
 孫の名を安造といった.安造は三つの年にいろりに落ちて,左の足にやけどを負った.それがもとで,小学校へあがる時分になってもビッコをひき,村の子供から「大八車」というアダナをうけた.安造のビッコは三年になっても五年になってもなおらず,外では皆が「大八車」とはやしたてるのでほとんど外へ出て遊ぶことなく,ひとりこの縁側で絵をかいたり工作に熱中して小学校を卒業した.
 中学校へはすばらしく良い成績で入学した.安造の負けずぎらいの性格は,世間からのそしりによって一層勉強に熱が入り,勉強ができたからまた一層他人からのそねみをかったのだろう.
 中学三年になった時,安造は、
 「俺は,高等学校へ行きたいな.工業の学校へ行きたか」
 とばかりいっていたが,父親も母親も,
 「そげんとこ行っていけんすかい.百姓は百姓しちょるが,えゝんじゃ」
 と―こうゆるしてはくれなかった.
 そんな家庭の中で,ひとり相談にのってくれたのは,このバアさんだけであった.
 「安,おまえ学校へ行きたか,行くがえゝ.今じゃ昼間働いて夜学問する人も多いけん」
 そして,バアさんの熱心な口ぞえに両親は折れ,安造は,中学をおりると東京へ出てクツ屋へほうこうし,夜定時制高校へ通うことになった.
 三月の風の強い日であった.野路のスミレが紫のずきんを地にたたきつけられている風の強い日であった.駅までは,バアさんとおッ母さんが送って来た.
 「安,体に気いつけるんだぞ.手紙を忘れんとおくれナ」
 安造はだまってこっくりをした.
 「苦しくとも―.いや,苦しかことはそげん長くなか.がまんせいや」
 安造はもう一つこっくりをして鼻をすゝった.駅前のアラモノ屋のかんばんがバタンバタンと鳴っていた.安造はお父ッつあんの古いオーバーのえりをかきあわせると,改札口に消えていった.
 それから六日目に,東京から手紙がきた.バアさんあてであった.
 梅雨が褐色のしょうじにつたう頃,また一本バアさんあてに来た.
 「前略.
  お元気ですか.僕の今いる所は毎日自動車がずんばい通ります.せからしくてしょうがなかです.先ぱいから時々しかられて,きのうは頭をなぐられました.だががまんしました.
 めしは腹がふとるまで食べとるから心配せんとです.夜の学校はきつかですけん,休みの日には近くの豪徳寺というお寺の境内を散歩して,だれたのがなおります.東京で木をこげんずんばい見とると,うちのこと思いだします.―」
 そして八月の盆が近づいた頃,手紙と共につくだにを送ってよこした.
バアさんは,
 「こりゃ安が働いて買うたつくだにじゃ」
 と涙を流して食べた.
 秋が訪れ,冬が過ぎ,ハハコグサが花をつけて一年は去った.安造から手紙も一ヶ月に一度は来たし,バアさんもひらがなばかりのたどたどしい返事を書いた.
 しかしその年の秋に,安造はもう東京にいなかった.自分からやめたのか,それともクビになったのか,手紙にはくわしく書かれていなかったが,十一月も中ばに入った頃,秋田県の豊川という所から手紙が来た.安造は,豊川で石油ほりをしているのだという.バアさんはじめ一家の者はおどろいたが、バスでしばらく走ると景色の良い八郎潟も近くにあっていゝ所だそうなので安心した.
 だがそれきり手紙は来なかった.バアさんも安造あてに何通か手紙を送ったが返事は来なかった.
 夏になって心配したお父ッつあんは,九州からはるばる豊川まで出かけていった.農はん期もすぎたことだし,ひとつには旅行の意味もあったのだろう.久しぶりにむす子に会えるのを楽しみに豊川まで行ったお父ッつあんは,しょんぼりと家に帰って来た.
 豊川にむす子はいなかった.安造は行き先を知らせず,油田所を去っていた.  「あの親不孝者が・・・」
 お父ツつあんは飲まなかった酒を飲みはじめるようになった.むろん一番心配したのはバアさんであった.
 それから三たび,池に氷が張り,タンポゝが咲き,ツバメが飛んで,モミジが散った.しかし安造からは便りが来なかった.日本のどこにいるのかもわからなかった.
 「安は,あげなビッコの体でどけったかんなあ」
 バアさんは思い出したように,きせるににたばこをつめた.僕たちは何ともいわなかった.いや何と返事していいのかわからなかった.
 しばらくちんもくが続くと,バアさんは話題を変えるように,こういった.
 「今日は良か日じゃな.小春日和じゃな」
 庭を見やると風はないで,咲きのこりのノギクがかすかに首をふっていた.
 その時,ルリタテハが庭で翅をとじたりひらいたりしているのを,僕は見た.T君も見た.S君も見た.しかしどうしたものか三人共ネットをとろうとしなかった.ルリ色の翅が光っている.ギザギザの外縁がゆれている.標本箱に入れたらさぞ美しかろう.さっきはあれほどほしかったではないか.まの悪い思いをしてまで,二人のネットがぶつかったではないか.だが今度は不思議なくらい手も足も,こうふんを感じなかった.
 僕たちは同じことを考えていた.   ――追われてもまたもとの所へもどってくる――かわいゝルリタテハよ――
 僕はバアさんにこういってやりたかった.
 ――ごらんなさい.さっき追われたルリタテハが今もどって来ましたよ.あなたの安造さんもきっと,きっと帰って来ます.そしてこの村でクワをふるいますよ.えゝきっと家をついでくれますよ.――
 だがそれをいおうとして,おバアさんと呼んだところ,バアさんに顔を見ら
れて,急にテレくさくなった.そこで,
 「チョウが来とる」
と指をさしただけであった.
 バアさんは,にっこりうなずいた.その時また一匹別のルリタテハが飛んで 来た.とまっていたルリタテハはぱっと飛んだ.そして二頭のルリタテハはく るくる円をかきながら空へあがった.
 もう僕は昆蟲採集を忘れていた.理科の教科書も,フラスコも,ケンビキョ ウも,頭からすっとんでいた.たヾのどかな農家の庭に満足であった.生きて いるルリタテハ,動いているルリタテハ,家へもどって来るルリタテハ――.
 広い,白い庭に午后の冬の日がふりそゝぐ.風はすっかりなくなった。暖い. ふむ,一句できた.
 いなかやの庭にとびかうルリタテ
 動物文学は,アンスロポモーフィズムによる投射だと,私は思う.これを心 理学では感情移入若しくは移入共感と言う.だが,対象がたとえ小さな昆蟲では
あれ,そこに投射された心理はやはり人間のものであろう.昆蟲の姿を描くこ とによって,人間の心を表現出来れば,それは稚拙ではあれ文学と読んで可い と思う.
 これは,1961年1月の或る日,炬燵の中のつれづれに空想を廻らせた短編で ある.


 ちゃっきりむし No.2-2 (1964年3月30日)

  大札山採集報告  梅沢賢造

 昨年11月23日に榛原郡本川根町大札山にて冬季採集会を行いましたので報告いたします.参加者は,松島昭人氏,同氏御子息達也君,高橋真弓氏、大塚清君と筆者及び藤枝東高校生物部員4名の計8名でした.目的物が主としてオサムシ類でしたので皆ピッケルやクワを持っており,今までの採集会とはかなり違ったものでした.ガケが多過ぎて分散してしまったためか,環境が悪いためかオサムシの数は多くありませんでしたが,それでも最初予想した種(オオオサムシ,カケガワオサムシ,ヤマトサムシ,クロナガオサムシ,マイマイカブリ)は全種採集でき,又蝶のほうでも妙なキアゲハの幼虫や,イチモンジセセリの幼虫を採集したり,楽しい1日を過ごすことができました.終りに,このような行事により多くの方々の参加をお願いして報告を終ります.


 ちゃっきりむし No. 3-1 (1964年7月25日)

  テーマ「 夏 」オオムラサキ −夏の日の追憶に− 北条篤史

ぼくが夏の少年だった頃
潮の香の強い見知らぬ村にやってきた
蜜柑が多い海抜七三米の山がある

夏の日
ぼくは毎日モンキアゲハを採りに行った
それが未知の漁村でのぼくの日課だった
突然 低い山頂にお前がやってきた

それは
ぼくがこの村にやってきた姿に似ていた
お前とは巨大な川の上流の原生林で会う約束だったから
お前は夏の少年にとって
真昼の星であった

ぼくは全身に薔薇色の稲妻をもった
――それは<愛>のようだった

 ちゃっきりむし No. 3-2 (1964年7月25日)

  コンニチワ蝶さん ◆夏の水窪◆  匂坂友和

 先日,浜松の井上さんから便りが届いた.「ちゃっきりむし」の食草が水窪にないか?とのこと.その後あちこちとさがしてみたが適当なものが見あたらず〆切期日が近づいてきた.あわてて昨年のメモを頼りにインスタント代用食なるものをデッチあげた.はたしてこの代用食,ちゃっきりむしが食ってくれるかどうか心配である.

 水窪の町の玩具屋に色とりどりの花火類が店先にかざられる頃子ども達の話題は近づいてきた「祇園祭」のことで持ちきりだ.昔はこの祭り相当の意味も持っていただろうが,現代の子ども達にはそんなことは必要ない.女の子はゆかたを着て子ども達は手に手にマッチと花火を持って町の中を歩きまわる.この日だけは大人達も子どもの花火遊びを許しているからだ.日暮れ近くになれば町の家々の軒先には赤青黄と子ども達の遊ぶ花火の光で本当にきれいだ.我々がその頃町を歩こうものなら,教室での日ごろのウップンをこの時とばかりカンシャク玉,2B弾の総攻撃だ.・・・・この祗園の祭が過ぎるころから水窪の町は連日,ムシムシとした風のない暑い日が続く.いよいよ水窪に夏がやってきた.畑の中や山沿いに建つ住家に大は10cm小は2cm位のムカデの訪問が続くのもこの頃だ.タタミの上といわず天井裏といわず多い時には一日に数匹の訪問を受ける.時には風呂にはいっていると天井からドブン・・・・ムカデと混浴だ.この頃山を歩くと各所にクリの花が満開だ.アカシジミ,ウラゴマダラシジミ,オオミスジなども見られる.クヌギ,ミズナラの林も各所にある.7月にはいると渓流沿いの柳の木,クヌギ林にはクワガタ,カナブン等の甲虫類に混ざってオオムラサキ,コムラサキ,スミナガシ等が見られる.7月の終わり近く1000〜1500m位の山に登ると樹上からはコエゾゼミ,エゾハルゼミのコーラスが流れ草原にはチャマダラセセリ等のセセリチョウ,各種ヒョウモンチョウが舞い時にはスジボソヤマキチョウも見られる.樹間にクロヒカゲモドキ,ヒメキマダラヒカゲ,クロコノマ等の見られるのもこの頃だ.

 昨年8月半ば私の住む町営住宅にホシミスジの訪問があったのもこの頃だ.8月も終わりに近づくと山頂付近はそろそろ秋の気配が感じられる.

 ちゃっきりむし No. 3-3 (1964年7月25日)

  マンガ虫  にしやまちょう子(西山保典)

 <放射能被害を受けた新種> 6月(June)

   トコロ・京都・杉峠
   日にち・六月末の日曜日
   "継竿研究の発表の日"(虫屋の某君の説明)
   久子さん「この杉の木の待合場所もあまり良くないわネ」
   久夫くん「全く,下がさわがしくなったよ」
   虫 屋 「ガチョン〜〜〜ン」

 <F 1> 7月(July)

   吸血鬼出現
   著者のことば
   「女はこわいでアル」
   かまれた人の話
   「咬まれたなんてチートモ知らなかった」

 <F 2> 9月(September)

   ところ・南国のどこか(国内)
   日  ・台風のすぎさったあと
   "迷子や家出娘を捜す日"(虫屋の某君の説明)
   モド夫「ヘンナ外人!!多くなったな」
   白太「自由化の影響らしいよ」
   ムラ子外人「旅行はいいネ」

 ちゃっきりむし No. 3-4 (1964年7月25日)

  わがバラ色の受験生活 前田邦夫

 高校生虫屋は一般的に極めて熱心で有能である.小学校または中学校で虫を始めると,このころは知識も相当に広くなり,コレクションも普通種から珍品へち厚みを増しつつあるころで,非常に楽しい時期なのであろう.
 ここで邪魔なのが大学受験という奴だ.こいつがこれまでに多くの有能な芽を枯らしてしまって来ているということは否定出来ないであろう.尤も本人のためにはどちらが良かったか一概にいえないのだろうが――.
       *      *      *
 さて,私も御多聞に洩れず熱心な高校生虫屋の一人であった.但し私が有能な高校生虫屋であったかどうかは怪しい.
 私はエスカレーターに乗ってその私立高校にいたので,高校受験の苦労はしていない.そのまま自動階段に乗っていれば大学までも行けたのだが,やはりそれではいささか物足りなく,国立大学を受けることになった.
 高校3年生――.しかし私は虫をやめる気はなかった.虫を休む気さえなかった.
 丹沢へギフチョウを追いに行き,5月の3連休を利用して入笠山へヒメギフを採りに行き,更に日光のウスバシロ,中央線沿いの秋山川方面調査の空振りと,半月毎ぐらいに出かけた.奥多摩でエゾミドリやアイノミドリなどを採ったり(IM45号),三ッ峠の近くに行ってアイノ,ウラスジ,ウラクロ,ホシチャバネ,チャマダラセセリなどを見つけたり(未発表)したのもこの7月である.採集は良い気分転換でもあったのだ.
 さて夏休み.受験の勝敗はここで決まるともいわれる.一方昆虫採集の方もかき入れ時だ.虫の方は諦めるか?
       *      *       *
 夏の東京はやはり暑すぎる.それに何となくまわりがガサガサして勉強には向かない.そこでどこか涼しくて静かなところに疎開することになった.
 もちろん別荘などというしゃれたものはない.どこかの安宿に長期滞在するのが良い.
 選ばれたのは,信濃追分のT旅館だった.3食付500円の契約値も満足だっ たし浅間山南麓,軽井沢の西という場所だから涼しくて静かなことも確かだ.信越本線の駅から5分という交通の便利さもあった.しかし,何よりもそこが絶好の採集地ということが最大の魅力だった!
 昔から有名な追分ヶ原.アカセセリ,コキマダラ,スジグロチャバネ,ヘリグロチャバネ,ホシチャバネ,ギンイチモンジセセリ(6月),ヤマキ,スジボソヤマキ,ヒメシジミ,アサマシジミ(6月),オオルリシジミ(6月),各種ヒョウモン類,ヒメヒカゲ,ジャノメチョウ等々と,草原性のチョウには事欠かない.
 草原の中にはまた絶好の林が点在し,各種ゼフィルス,ミヤマカラスシジミ,オオヒカゲ,キマダラモドキなどが採れる.
 アゲハ類やミスジ類もいるし,キベリ,エル、クジャクチョウなども沢山見られる.
 お山に登ればミヤマモンキチョウにベニヒカゲが楽しめる.
        *      *      *
 むしむしする東京を夕方発つ空いた列車は夜九時半ごろ静まりかえった信濃追分の駅に着く.月はなかったが,一面の星の中,北の空に黒々と浅間山のそびえるているのがわかった.半袖姿では涼しいどころか寒い位だ.
 翌日は早速近所を採集してまわる.
 翌々日は朝早く起きて浅間山の頂上をきわめる.活動期に入りかけているこの活火山は火口からしきりに水蒸気を吹き上げていた.
 そのまた翌日はもう7月末日.やっとこの日から本式に勉強が始められた.
 いくら涼しいといっても日中はやはり暑い.勉強の能率が上がらなくなるとさっと帽子をかぶり,三角缶とネットを持ってフラリと散歩に出る.1時間もして帰って来ると,オナガシジミや赤いセセリ類がゴソゴソと三角紙の中にたまっていた.
        *      *      *
 信濃追分には8月末までいた.その間に,軽井沢に来ていた友人が遊びに来たり,家族がそろってやって来たり,結構往来があって淋しくはならなかった.勉強の方大い捗ったと考えている.チョウも特に珍しいものこそなかったが88種846頭を採集し,まず満足な成績だったといえよう.
 こんな具合で非常に楽しい受験生活を送れた私は,ノイローゼにも健康不良にもならずに翌春の受験に臨むことが出来た.この幸福にはただ感謝のほかはない.

 ちゃっきりむし No. 3-5 (1964年7月25日)

  売ってやるから昼間来い 井上?斑

 官僚という言葉がある.公務員はお役人だから,人民どもより一段高い地位にいて,形式にとらわれ大柄で仕事は至って遅い.その官僚が今では人民と平等になり,事務も能率化してくると共に,労働者だからアカハタを振るようになった.

 昔は,就職しようとする側が,これもできます,あれもやれますと言って自分を会社に売り込んだものだが,近頃では会社の方が,こんな立派な設備ですからどうぞおいで下さいと,労働者に誘いをかけるようになった.世の風習は知らぬ間に変るものである.

 変った世の風習に商人とお客の関係がある.商人は客に対して,沢山の商品を値よく買って貰うためには少し位の便宜をはかる.これだけは変らないだろうと思っていたが,売ってやるという終戦直後のインフレ経済がよみがえってしまったところがある.

 私は半翅目をやっているからダブルピンを多量に必要とする.しかし,浜松のような田舎では却々手に入らないから渋谷まで買いに行くことにしているが,昔は閉店後でも勝手口へ行くと戸を開けて売って呉れた.戸を開けて売ればこそ,10箱買おうと思っていたところ悪いから20箱下さいということになり,店は繁盛,利益はザクザクあがって鉄筋の新築にふみきれたのである.それがいざ,デンとしたビルになったらどうだろう.

 「営業時間 前8時から后6時まで,日曜祭日休業」という形式を昔の官僚より立派にまもって売って呉れない.

 浜松からは準急に乗っても渋谷宮益坂上まで片道4時間半はかゝる.日曜祭日は休業だから,どうしてもウイークデイに行かなければならない.幸い私は土曜日が半日であるけど,仕事が12時15分かっきりに終るとは限らないし,列車の時間だってそううまくいかないから,このあいだは,宮益坂上へ着いたのが夕方の6時45分頃になってしまった.

 すると当然のことながら表の鎧戸はおりていたので,勝手口へ廻るとそこの戸も鍵がかけてあり,呼鈴を押しても開けて呉れない.中には人の動く影が見えていてである.

 15分位押していたが開けて呉れないから,近くの公衆電話へ行った.しかし,2本ある電話のいずれも出て呉れなかった.雨がしょぼしょぼ降り出して肩から背中に滲み透ってきたが我慢して電話機を握っていた.しばらくそうしていたが,一向に出て呉れないから,ついにアタマへきて夜行で帰って来てしまった.

 開けてくれたら頭を下げて,時間外に訪れことを詫びようと思っていた.纏めて虫の道具も買っておこうと考えていた.まして負けてくれなどという気持はさらになかった.

 にも拘らず,どうして一寸戸を開けて呉れなかったのだろう.全国に名を売った店だから,私ひとりが買う高など問題ではなかろうが.それにしたって商取引を別にして,まだ宵の口に訪れた人に戸をあけないというのは非常識ではないか.売って欲しくば昼間来いといいたいだろうが,営業時間が8時から6時までで日曜休みなどと区役所のマネをしていたら,月曜から土曜まで社会のために働いている虫屋は,いつおまえのところへ行けると思うのだ.いいたくはないが,それほど頭を高くしているならはっきりいってやる.「信用ある品質」などとは広告だけで,ダブルピンなぞは,5本に1本は微針がくるくる廻ったり,先が丸くなっていて使いものにならないし,毒瓶は硝子が薄いから,畳の上へ落としても割れてしまう.それでいて,毎年値段をつりあげることだけは忘れない.

 日本に、昆蟲の器材を売っている店はここだけではないから,昆蟲談話会の折などみんなで話し合って,「信用ある品」を気持よく買える店を探したい.特殊な商品を売っているといっても,人民どもより一段高い地位にいる商人ではないのだから――.

 ちゃっきりむし No.4-1 (1964年11月10日)

  虫一同より虫の虫諸君へ ◆真夏の夜の夢より◆ 梅沢武夫

 どうも我々は,近頃,世の中が渡りにくくなった様である.市街の木々は倒され,追い出される.立ち退きをさせられて,農村,山村へと来てみれば,あの脳に来ちゃう様な農薬とやらをかまされる.それもどうにか運良く通り抜けると,次は,人間とかいう,この世で,一番どう猛な種族に追いかけられ,時に,捕虫網とかいう死の部屋に入れられ,一生を終わらねばならぬ.  ああ昔は良かったネ.「明治は遠くなりにけり」我々は,我々の殺害者を殺人罪いや間違えた,殺虫罪で,起訴したんだが,認められなかった.この上は,なる様になるさ.ケセラセラだ!!

 最後に,一つ.
 三角ケースの中や,その他に,標本虫の為のエサとしかなっていない仲間がいるだろう.それを考えると,私は悲しくなります.
 君達にとっても そうなれば価値がなくなるし,我々にとっても,それは価値ある人生(虫生?)とは,いえないんだから.

 ちゃっきりむし No.4-2 (1964年11月10日)

  LABIA

 特急「ひかり」が走り,オリンピックが終った.聖火のあがった64年は研究の成果もずいぶんあがったことだろう.
 中共が死の核実験を行い,フルシチョフがクビになり,英労働党,米民主党が与党におちつき,日本国では警官がドロボーをやっていた.
 佐藤首相に正のTaxisをもつシードラゴンは佐世保に出現し,日本人同志の血が路上に流れている.あきつの島へやって来る.ドラゴンフライはバク卵さげてやってくる.
 <幸せなら虫採ろう ガサガサ>も,経済成長10%を下まわって消えてしまった.不景気な巷でチンピラが歌っている.
 <ホノオのように燃えようよ>
 虫屋よ.されど冬眠するなかれ.越冬するのだ.春まで越冬をしなければならぬ!
                                     (編集者)

 ちゃっきりむし No.4-3 (1964年11月10日)

  プライバシー  井上?斑

 10月の「駿昆」は蝶の記事一色で塗り潰されていた.どこでも蝶と甲蟲の生活は,そのプライバシーまでおかされて研究されているのに.トンボやアブやキリギリスの世界は,プロ学者にしか覗かれていない.

 2年前に「カメムシ屋が人口500を擁する同好会に2名」(野路覚書Vol.5No.3)しかいないと嘆いた私が,今年,「日本のカメムシ類の分類はまだこれからで判らない事だらけです.目下のところ600種位記録がありますが恐らくこの3倍以上いる」と,長谷川仁氏からお便頂いた.人気のスターほどプライバシーがおかされていると同様,人気のある虫たちほどプライバシーが明るみに出ているのである.裏がえしてプライバシーをおかす側をみれば,昆蟲学者の大部分は道楽の学者であると云えよう.

 1957年,チャドクガの大発生がマスコミで騒がれたことがある.「フラバ」という語を小学生まで覚え,蛾を見ればドクガだフラバだと,その害は必要以上に語りつがれ,まじめにドクガの研究にとり組んだ人もあれば,世の波にのって俄かにドクガ研究家を自称した人もあった.

 続いて唐がらしからケナガコナダニが発見されると,全国から次つぎにコナダニの投書がとびこむ.イエバエが缶詰から出たとなると,頭のいゝ奴はフレークの缶詰に自分でハエを採って入れ,業者からお詫びの缶詰を10ぐらいせしめたりする.

 北海道から全国に広がった1961年のポリオは,媒介者がゴキブリだという厚生省の発表によってゴキブリだけが悪党になり,子をもつ母はゴキブリを見れば目にカドたてゝ追いまくった.

 1962年には,東京を中心にアオバアリガタハネカクシが発生した.猫も杓子もまわらぬ舌を噛みつゝ,アリガタイハネカムシの恐怖を訴え出たから,ジャーナルにみる報告はものすごい発生である.

 小さな虫けらが,かくも万物の霊長を愚弄するのは,ひとえに社会心理の連鎖による.昆蟲がまき起す社会心理史はあらためて調べてみたいと思っているが,今日,これをこゝに引出したのは,小さな現象や事件によって,民心がなぜ大きく動くか,動けばどうなるかということを考えておきたいからである.

 その第1は,缶詰の中からイエバエが出て来たが,どうでもいいこと,些細なことと捨てゝしまった.しかし誰かの投書が発端となって実は先月うちでもと訊えが殺到する場合.

 第2は,ドクガの記事を読んだ後で何かに刺された.「さてはドクガではないか」が「きっとドクガだ」と書かれ語られる場合である.人間の心理は,あやふやな表現より,はっきり名称をあげたがるし,その方が記憶に残り易い.

 第3が流行を身をもって感ずる心理である.目下新聞テレビで騒がれている虫に刺されたら,得意になって話題にする人が多いし,中には,あまり痛くなければ流行のムシに刺されてみたいと願うオッチョコチョイもいよう.

 こんなことは,衆愚の間だけでなく,知識層の医者の間でも,新しい病気が学会で報告されると,その病人が急激に増えたりする.

 最近,ふたことめにはプライバシーの侵害がとび出す.都合の悪いことを言われるとプライバシーを云々し,中には本当に告訴してしまった者もある.告訴されると困るから黙ってしまう.

 蝶のプライバシーはおかしてもいい.ゴキブリに冤罪がかゝっても相手は遁げるだけだろう.しかし,相手が人間だったらどうか.悪いことをしておいて言われそうになるとプライバシーが引出され、それでもなお誰もが自信をもって公言できるだろうか.犯罪の目撃者が犯人のプライバシーを気にしたといえば笑い話だが.ドクガでないドクガが,ドクガとして伝えられていく社会心理をみればどこまで笑い話と楽観できよう.

 私は某蝶研究家を酷評した小文を読んだことがある.これもその気になれば,刑法第230条の名誉毀損罪にかけられないことはない.しかし,法よりもそれを問題にとり上げる社会心理を私は恐れている.

 言論の自由が無制限だというのではない.が,言論の自由が原則でなければ,政治も社会も人権も,そして学問の世界も常に秋風が吹きすさぶであろう.プライバシーは個人の秘密である.だが,個人が一度社会に関係した時,どこまでプライバシーが通用するか.そのプライバシーを守った為に,別のもっと大切な人権を失うことだってあるのだ.

 言われて辱かしいことなら初めからやらねばいい.――言論の自由をおかすプライバシー波に対しては,私はこう極言しておく.

 ちゃっきりむし No.4-4 (1964年11月10日)

  「どうだい,今日は釣れたかい」 イモムシゴロゴロー(平井剛夫) 

 大工が,キリ,ノミ,カンナ,カナヅチと色んな道具を持って建て前の現場へ出掛けるように,虫採りは,三角管,ネット,スプリング,毒管と、その他大事な七ッ道具をガサゴソ持って出掛ける.彼達の持物にはそのように色々あるけれど,これらはザックにすっと入るから問題はない.

 さて,ネットの柄が問題なのである.
 どういうわけか,虫採りをしている人は大きくなるにつれ次第に昆虫採集をしているということを隠すようになる.わかりもしない人に「大の男が虫なんぞ追いかけやがって」と思われたくないのか,何の気なしにバスの人,汽車の人になりたいのか,良く知らない.

 単調な山間の道をバスが上っている場合なぞ,又特に天気続きでガラス窓ごしのあたりの景色がホコリっぽく気に入らない、そんな時バスの中で大抵一人は居るのである.

「釣りですかい」
 このゆれでは眠るわけにはいかず,さりとてしょっちゅう通い慣れた山道で遠足に来た小学生の様にくりくり目玉で窓の外を眺める気もせず.――といったそんな人が.

 その人は,「えゝ鮎です」「ヤマメです」とかいうだろうと期待する.
「いや,虫採りなんです」とこう答えると,この答にこの話し掛けた人は十中八九,なんだ虫採りかとアテがはずれて「はあ,そうですか」で終りとなるんだけど.それでも余っ程暇な人は話し掛けてくる.「この辺に採るような虫なんかいるんかねえ」とか「こんな時にゃあ,虫は居ませんよ」とか「虫採って昆虫にするんですか」この「昆虫にするんですか」という問いは何度となく聞かされている.でもいつもこう問いかけてくる時はきまって何か自信ありげで,質問の誤りに対する訂正は出来なくなってしまう.

 この「釣ですか」という話し掛けを起こさせるのが,他ならぬネットの柄なのである.カシの木一本の時であったなら別段こんな問いをされる筋合はなんにもないのであるが,さてゼフィルスだの,ハナカミキリだのと何本も何本もつなげる竿になっちまうと,効果てきめん,もう出掛ける度である.ちなみに今日は何度云われるかなと勘定してみたら帰り迄に五回.

 面白い事に,この「鮎ですか」「ヤマメですか」という魚の名が,バスが山道を上っていく高さにつれて変わってくるのである.

 町なかを走っている時にゃあ,あわてんぼうのおばさんが,「お兄さん,フナ釣ですか?」

 このおばさんは色々と話し掛けようとするが,でも僕のキャランバンシューズに気が付いてどうもわからないといった顔をして,その辺で話しは止めてしまう.

 少し山道へ入ると「今日ら,鮎はどうでえ、こうも雨が降らねえとあんまし釣れなかんな」

 バスも,お客も上下運動が激しくなると「ヤマメですか,良いですなあ」と山の小学校の先生らしい人が云う.

 いよいよ両側がきり立ったくねくね道をせつなくエンジンをうならせて上っている頃には「あの辺のふちにゃあいけえイワナ釣れるそうだっちょうよ」と樵風のおじさんがバスの窓から節くれ立った指でさしながら,教えてくれる.沢の音が涼しく,水を吸ってたミヤマカラスアゲハがバスに驚いてパッと飛び立つのもこの辺だ.

 この「釣りですか」とか「釣れましたかい」もバスを降りてどんどん山道に入ってしまえば,いっくら長い竿をひっかついでいようと云われないのであるが,いつか,山道を,ネットをたゝんでザックに入れ,竿を肩に口笛でも吹きながらてくっていると,姿なき声が上の方から「どーうだーい 兄さん釣れたかよー」と云ったのにはびっくりした.声の主はやっと探して小さく見えた.

 かなりの傾斜の雑木林で伐採しているおじさんが鉢巻手拭いをとって顔の汗をぬぐいながら云ったのである.でもこの時には「えーえ,まーあ,まーあだよー」と返してやった.早く戻りたかったし「いやー,虫採りなんですよー」と云って折角一休みしようとしかけ気持をまずくさせたくなかったから.止むなく虫採りが釣り人になったというわけ.けれども,最近,この「いや,虫採りなんです」を答える気まずさから逃れようとした為か,最もこの本人「いや,この方がずっと便利なのである」と反論するのであるけれども,2本も3本も一方のはしをキャラバンシューズのつま先に一方を手に,握りしめながらバスにのっかって持つ長いつなげ竿を,数は沢山にはなるんだけど,つなぎ竿を全部抜いてしまうとザックへすっと入ってしまうトランジスタのつなぎ竿にかえてしまってからというものは,バスにのっかっている誰にも「どうだい,今日は釣れたかい」と云われなくなった.ちょっとさみしい気もしないでもないが.

 今日も,ザックの三角管にはあれとあれが,甲虫も色々収穫出来た.それにウチへも戻りゃあひやっけえ麦のジュースが――」。この得体の知れぬ若者がバスに揺られながらニタついている.