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<Web ちゃっきりむし 1966年 No.6>

● 目 次
 LABIA(No.6-1)
 しん ぼうげん(清邦彦):ぎふ蝶への想い (No.6-2)
 杉本 武:おもいでの虫 (No.6-3)
 渡辺一雄:思い出のカメムシ (No.6-4)
 高橋真弓:オオミドリシジミ (No.6-5)
 磯村鋭志:山の妖精 (No.6-6)
 内藤孝道:蝶の幼虫採集と飼育メモ (No.6-7)

 ちゃっきりむし No.6-1 (1966年5月15日)

  LABIA

昨年ヤクザ歌手が,
 「孵ろかな 孵るのよそうかな」
 と歌ったために,「ちゃっきりむし」は孵るのをよしてしまった.おまけに物価はタカネヒカゲで運営資金はタラフタオアブラムシ.松代町ならず当方も震度4だ.
 頭へきちゃってエレキをかき鳴らすから,そそっかしいオオムラサキやゴマダラチョウがエノキとまちがえてエレキに産卵した.というのはウソ.
 国鉄運賃はガッポリあがって,折角の飛び石連休は採集旅行を思案してしまう.行けば帰りはストでストップ もっとも私なぞはストのおかげで,宿の主人が蒜山から勝山までハイヤーで送ってくれたから塞翁がウマだ.ウマ年はウマくいく.
 日本の政府は,マスコミ料金値上げをエサにベトナム報道を押さえ,ソ連のシニャフスキー裁判は有罪となった.芥川也寸志が労音と絶交するのも無理からぬことだ.とかく官僚や巨大な組織のドグマは,民間の意志まで曲げてしまう.反骨精神の「三四郎」が逝去したのはおしいことだが,われらの世界において,文部省や農林省が同好会の研究について一言も容カイしてないことは「いいじゃない一一一一」
 最近の学会では,虫を知らないヤツがもっぱら「農薬学」をカサにきて,独善性を発揮しているが,こんなのは昆虫学ではない.研究の成果より,製薬会社からのモライの成果を期待して,水銀剤ばかり作っている.
 茶業試験場でいま行なっているのは,チャの根の害虫.ハンノキキクイムシの研究.薬剤による防除がむつかしければ,なおのこと天敵の発見をつよく望む.
 現代人は忙しい.あまりに忙しくなると,私は京都へ走って庭園で休むことにしているが,いつも目ざわりな京都タワーは,バカ市長を象徴しているみたいだ.
 寺でゆっくり茶の湯を味わいながらも,虫にだけはおさおさ注意を怠らない.だから,春の日に眠りからさめたばかりのクサギカメムシを退蔵院でも竜安寺雲竜の庭でも採集した.そんな標本には,当時の思い出がこもっている.
 思い出といえば,もうあれから10年がたつから話してもいいと思うが,某大医学部が水産加工物の防腐剤の許容量実験を,関東のある刑務所で囚人を材料に行なったことがある.どうせ役にたたないムシケラ同然の野郎が,社会のオヤクに立ったのだから,あえてとりたてていう必要はないかも知れない し,またこんなことはいくらでも行なわれているだろう.現にドタガの針を,不良少年に飲ませてみたオモシロイ実験もある.
 ところが,人体実験が善良なる市民において行なわれたら,その罪には全く弁解の余地はない.そのはずの罪がいま正義とされているのはなぜだろう.
 1986(昭11)年,ハルピン南方20Kmの平房という草原に,関東軍の細菌学の人体実験場が設置されたし,川崎市にも第九技術研究所があって,もっぱら細菌兵器を生産していた.細菌兵器は,核兵器や化学兵器に比し安価でできたから私の友人の父がここに勤務して鼻疸菌などの研究をしていたが,退職後も当時の模様について語らない.同僚はどうしたかと聞くと「グンタイ」へ行ってしまったという.「グンタイ」とは何をさすのであろうか.
 朝鮮戦争の時も細菌兵器は使われたし現在もベトナムでパラまかれている.そしてその手段には,悲しいかな昆虫学が利用されているのだ.ここでは細菌をバナナやカステラに入れて食べさせているのではない.ベクターとなるカ・ハエ・甲虫を繁殖し,生態にかなった条件のもとに軍用機で空中散布されている.
 エドワーズ上院議員は残酷性が少ないというが,とまれ細菌兵器のセンレイを受けた民族は,アジア人に限られていることを,私たちは知るべきである.水爆を保有したとて何ら黄色人種の誇りにならぬ. 平和なくして,いかで「おもいでの虫」が語られよう.
                (編集者)

 ちゃっきりむし No.6-2 (1966年5月15日)

  ぎふ蝶への想い しん ぼうげん(清邦彦)

ほら
今年も来たんだよ
君と約束したろ
この谷間の村の
この雑木林の中で
こうして切り株に腰をおろしていれば
君が下の方から
「おまちどうさま,しばらくね」って

       どうしたの
       もうカンアオイの芽が出て
       タチツボスミレの花も咲いて…
       約束の時だよ
       忘れたのかい
       ぼくはさっきのネットを振り回していった
       少年じゃないんだよ
       ぼくにはそんなものはいらないんだ

       それとも
       君の四色のツーピースと   
       真珠のブローチは      
       もう見られないの

 ちゃっきりむし No.6-3 (1966年5月15日)

  おもいでの虫 杉本 武

 私は気が多いせいか,少年時代から実にいろいろな昆虫を採集したり飼育したりしてきた.そのためいろいろな昆虫にそれなりの思い出がある.だがここでは編集者の御要望に応じて,コオロギやキリギリスの仲間,つまり鳴く虫についての思い出をたどって見よう.

 私が鳴く虫に興味をもったのはその鳴き声,(実際には音といった方が正しいが)の美しさや面白さのためで,もし彼らが鳴かなかったらさほど興味がわかなかったかもしれない.私は名古屋で生まれ育ったが.6才の時に岐阜県の母の実家に遊びに行ったことがある.その時,草むらで鳴いているスズムシの美声をはじめて耳にした.そして夢中になって草をかきわけて探したことを憶ている.その時はむろんスズムシの姿さえも見つけることは出来なかった.しかしこのころから私は鳴く虫に興味をもつようになったようである.私の耳は非常に敏感になり,かなり遠くで鳴いている虫の声を聴きとることが出来た.ある春の夜,勉強をしていると,ジーというかすかな連続音がきこえてきた.私は懐中電燈を持って家をとび出し声のする方に走った.約100m行ったところに麦畑があり虫はそこで鳴いていた.懐中電燈の光にてらし出された鮮緑色の虫を見つけて大喜びし慎重に捕えたらこれがクビキリギスとの最初の出会いであった.私はその夜家の中でこの虫を鳴かせて楽しんでいたら,家の者から安眠妨害になると文句をいわれたのでしかたなく殺して標本にしてしまった.

 その年の夏には庄内川の堤防でカヤキリを採集した.これはクビキリギスよりも大きく,その声たるやものすごいのでこれも飼うのをあきらめた.小学校4年の時であるが,そのころ私はセスジツユムシを知らなかった.ある夕暮時,近くの屋敷の庭の中からチッチッチッ・・・チリ・チリーというかすかな声がきこえてくる.一体どんな虫だろうと心はおどるが庭の中の方で鳴いており,周囲はサンゴジュの生垣になっていて入ることは出来ない.その家の人に虫を採らせて欲しいとたのみにゆけばいいのだが,そのころの私は大変気が小さかったのでそれが出来なかった.ふと見ると生垣の下の方に小さな間隙があったので私は苦労してそこから中に入った.ところが虫は鳴き止んでしまった.又鳴き出すまで中で待っていたかったがその家の人に見つかるような気がしたので又苦労して生垣の外に出た.するとすぐ虫が鳴き出した.私は舌打ちをしながら又中へもぐり込む.すると虫はまるで私をからかっているかのように鳴き止む.こんなわけで2,3回出たり入ったりしていたがついに虫の居所をつきとめることが出来た.薄暗がりの中で緑色のスマートな虫を見つけてそっと手を伸ばした.ところがうっかり近くの葉をゆすってしまったため,虫はピョンとはねてしげみの中にかくれてしまった.こうなってはもういくらさがしても見つからない.あたりはますます暗くなって来たので私はあきらめて帰ることにした.生垣から這い出してしばらく歩いてゆくと,いきなり後から人が呼びとめた見ると見知らぬ中年の男がやって来る.そしていきなり「警察の者だが君は今何をしていたのだ,そんな所から出たり入ったりして」といやな目つきで言う.「警察の者」ということばで私はうろたえたが泥棒をしていたのではないので卒直に事情をはなした.しかしその男は虫などにまるで関心がなかったとみえ,どうもあやしいという顔をした.私はあの時虫を捕えていたら証拠として見せてやれるのにと残念でならなかった.最後に男は私の住所氏名と両親の名前を聞き,手帳に何やら書くふりをして立ち去った.家に帰って両親にこのことをはなすと,果して母親からひどくしかられたものだ.あとで分ったことだがその男は私の家から少しはなれた所にあるタバコ屋のオヤジであった.世の中には余計なことをする人もあるものである.セスジツユムシはごく普通にいる虫であるが私にはこのようなはずかしい思い出があるのである.

 中学に入ると昆虫採集も少し遠くへ行くようになった.よく市電に乗って東山公園へ採集に行った.そこには私の住んでいる中村区には見られないような珍らしい昆虫も多かった.9月中旬のある日友人と二人で植物園付近で採集してクサヒバリ,ヤマトヒバリ,カネタタキ,クマスズ,ササキリ類等を沢山採集したのであとは動物園を見物して帰ることにした.カバのおりの所へ来たとき,私はふとききなれない美しい虫の声を耳にした.非常によく澄んだ高い声で,リーリーリー…と鳴いてすぐ鳴き止んだ.もはやカバどころではなくなり声のした方へ走った.再び虫は鳴き出した.意外にも木の上で鳴いている.よく探すと低いソヨゴの葉の上で前翅を立てている緑色の美しい虫が見つかった.これがアオマツムシだと直感して欣喜雀躍し,慎重に捕虫網の中へ追い込んだ.それから二人で更に探しまわって結局この日は6♂♂,3♀♀を採ることが出来た.この時のうれしさはいつまでたっても忘れられない.その後アオマツムシは非常に稀なものになってしまったが今私はこの虫の保護について考えているのである.

 さて高校時代の思い出としてはタイワンクツワムシが印象深い.夜に天白川の堤防に出かけクズの生い茂った所からこの虫を数匹採った.名前も分らないままに家に帰って平山修次郎の原色図鑑を見ておどろいた.タイワンクツワムシという種類で産地は台湾と本州(三重県)と書いてある.私は興ふんして当分の間は勉強も手につかなかった.今ではこの虫は暖地に広く分布するようで静岡県の西部にも多産地がある.

 大学に入って静岡県に住むようになってからもいろいろな思い出がある.まだ新しい思い出であるが昨年6月,静岡市下山脇の鯨ヶ池に出るトンネルの近くを歩いているとヂリヂリヂリ‥という虫の声がきこえて来た.トンネルの上の斜面にかなり多くいるらしい.これまできいたことのない声なので心をおどらせて近づいた.ところが虫はどうやら地下の穴の中で鳴いているらしく,おまけに雑草が茂っていて穴は非常に見つけにくい.長い間かかってやっと穴を見つけたが虫はすぐ穴の奥へ逃げ込んでしまう.根掘りを持っていたのでこれで虫を掘り出そうと試みたが雑草の根や石ころが多く穴は深く曲りくねっていてすぐ見うしなってしまう.たとえ虫を掘ね出してもこれでは虫は傷ついてしまうだろう.そこで今度は空カンに水を汲んで来て穴に注いでみた.水は全部穴の中に流れ込んだが虫は出てこない.さてどうしたものかとしばし考えていたが,ふと傍を見ると草の葉にセマダラコガネがとまっている.その時私の頭にすばらしいアイディアが浮んだ.いきなりセマダラコガネを捕えてそれを穴の中に押し込んで見た.セ々ダラコガネは興ふんして穴の奥の方へどんどんもぐり込んでゆく.つづいてもう一匹もぐらせる.そしてしばらく見ているといきなりピョンと黒いコオロギが穴からとび出して来た.思った通りコオロギは恐るべき敵が現われたとばかりおどろいてとび出したのだ.難なく捕えてみると,これは私にとって初めてのクロツヤコオロギという珍種であった.以前から図鑑等で見て知っていたが実物を見たいものだと願っていた種類だった.私は気をよくしてさっそくこの珍法を用いてたちまちのうちに4♂♂を採集してしまった.それにしてもこんな変な方法でコオロギを採った人は他にあるだろうか.私はセマダラコガネに心から感謝しながら帰路についたのである.

 ちゃっきりむし No.6-4 (1966年5月15日)

  思い出のカメムシ 渡辺一雄

 僕の中学時代の虫友に川瀬英爾君がいる.彼は今,金沢農試でイネの害虫を研究している.数年前マレー半島で2年間過し,ブルッキアナの紹介などをしているのでご存知の方もあろう,中学時代はカメムシが好きで,そのコレクションも時々見せてもらった.蝶好きだった僕も,いつとはなしにカメムシに興味をもつようになった.彼の箱の中にないカメムシを採ってやろうと思った.

 その日は五月晴の採集には絶好の日和,教練の時間だった.いかめしい配属将校の訓示に直立不動しなければならない学生達であった.僕は学校を出る時から,今日の演習地は三方原台地だから,何か虫をとってやろうと胸をわかしていたのでどうも落ち着かなかった.何の気なしに眼を地面におとすと,足元に今まで見たことのない美しい平たい虫がはっているではないか.将校の顔色を伺いながら虫をぬすみ見するとどんどんはっていくようである.逃げられてはと気が気でない.将校がうしろを向いて山を指さした瞬間,すばやく身をかがめてこの虫をとらえた!!.僕の顔はゆがんだことでしょう.手に激痛を感じた一一.その後,セグロアシナガバチに眼の上を刺されたこともあるしマツモムシにやられたこともあるが,あのビロウドサシガメに刺されたことば今でも忘れない.虫友だった斉藤偏理君は,最も痛いのはオオトビサシガメだといった.彼はこれにひどいめにあったからであろう.サシガメはだてにつけた名前じゃない.(尤も人間を刺すのが本来の目的ではないが)用心, 用心.

 マダラカモドキサシガメという小さいサシガメがある.川瀬君の自慢の採集品の一つであった.浜松市では極めて稀な種類であるが,僕は燈火に飛来したものを今までに2頭得ている.

 昭和の始めに,学生版の動物図鑑が出版された.昆虫の記事も随分人っていたように思う.その中にムラサキカメムシがあった.昆虫の同定の仕方などわからない中学生であったが,高山帯に産するというだけで妙にひかれるものがあった.類似種クサギカメムシを沢山集めて,その中にムラサキカメムシがないかと捜したこともあった.10年程前の7月下旬の夕方,僕は長野県人笠山の牧場付近をいそぎ足で歩いていた.名前のわからない菊科植物に群がっていたカメムシをみつけて,夢中で採集した.後日農林省技官長谷川仁氏の同定によって,これが中学生時代から寸時も僕の頭をはなれることのなかったムラサキカメムシの正体であったのである.紫水晶のような紫の虫と考えていた僕にとっては,あっけない幕切れであったが,ともかく長年の念願がかなえられて嬉しかった.

 昭和6.7年に天竜市光明山で採ったウシカメムシ.昭和17年頃,浜松市の海岸地方で冬の眠りからさめてはいだしたオオツノカメムシは,九州大学農学部昆虫学教室の標本箱に収まっていることと思う.今でも変わったカメムシを見ると身ぶるいがする.

 ちゃっきりむし No.6-5 (1966年5月15日)

  オオミドリシジミ 高橋真弓

 私が中学2年のすがすがしい初夏の朝であった.その日は1948年6月6日.すでに蝶採集に夢中だった私は,いつものように静岡市内の賤機山に出かけた.大岩の臨済寺南側の池のところから茶畑とミカン畑の間をくぐりぬけ,尾根に出てから「地獄坂」を横ぎって一番高い賤機城趾まで柱復するのであった.

 賤機城跡附近は,南北に続いている細い尾根道をさかいに,東側はクロマツ林とシイの林,安倍川に面した西側は,茶畑とミカン畑からなり,一部にクリ,ヌルデ,ウツギ,イヌンデなどからなる伐採後あまり年数をへていない高さ1〜2mぐらいの低い雑木林があった.

 朝の強い光はクロマツ林を東側から照りつけその雑木林の上に深いかげをつくっていたが,梢をもれる光が明るい斑点のように初夏の若葉を照らしていた.

 右手(西側)のしげみからヒカゲチョウがとびだした.それを追いかけて,何かものすごく速くとぶ蝶がうす青い金属片のようにきらめきながら,そのあとを追いかけていくのが,私の眼を射た.これこそ何度も夢にまでみた「ミドリシジミ」ではないか.蝶は地上2mぐらいの木かげのクリの葉の上にはねを閉じてとまった.2本の触角がぐっと突き出して澄みきった青空をさしていた.私は下駄をぬいではだしになった.一歩,二歩.息をこらして,無心に手製の不細工な網を振った.この蝶は,あとでしらべたらオオミドリジジミとわかった.

 私心標本箱の中にある標本は,みな一匹一匹思い出のあるものばかりである.しかし,中でも,18年間もたいせつに保存されているこのオオミドリシジミは,あのときの新鮮な感受性とはげしい情熱を思い出させてくれるのである.私は懐古趣味はきらいである.だが,過去の時代に全力を傾けてやったことについての思い出は,いつになっても私をはげましてくれるのである.これからも,もっともっと蝶についての楽しい思い出をつくっていきたいものだと思う.ただ,近ごろのアジアの硝煙の臭いが気になるのは,私だけであろうか.

 ちゃっきりむし No.6-6 (1966年5月15日)

  山の妖精 磯村鋭志

 私達は思い出の中で生きているといったらいいすぎかも知れないうが,思い出を持たない人はいない.私はそんな軽い気持で,虫の採集によくでかけた学生時代を思い浮かべた.あの場所はよかったとか,あの時は誰と行ったとかはすぐ心に浮ぶ.しかし,肝心の虫のおもいでになると,私の目の前をいろんな蝶がチラツイてなかなか定まらない.私の浮気心がそうさせるのであろうか!そこで私は詰ってしまった.

 標本箱を覗いた時,どの虫も私には愛着のある,おもいでの虫ばかりである.私は意を決してウスバシロチョウを選んだ.この蝶は採集を本格約に始めた高校時代に,私の心を最もとらえ,その採集には一方ならぬ執念を燃やしたのである.

 その当時,私はウスバシロチョウを"山の妖精"という気持で崇めていた.それは,人をも寄せつけない奥深い山の渓谷に,あの透きとおる白衣のような羽を,おもむろに動かす姿を想像していたのである.何か近づき難い感じがした.私はこの蝶を採るべくいろいろな資料を検討した結果,名古屋から最も手近かに行かれて採集できる可能性が大きい藤原岳(鈴鹿山脈北端にあり,海抜1165m)を選んだ.さっそくアタック開始.5月5日その日は快晴に恵まれ,これは絶対採れるぞと意気揚々と家を出た,が時期がやや早く目撃すらできなかった.そこで再び5月17日にでかけたが,今度は雨にたたられて,まんまと失敗.私は逸る心を押えて,この年は見送ることにした.しかし図鑑を見たり,交換で送ってもらった高尾山のウスバシロチョウを眺めて,斗志は燃やし続けていた.アタック計画2年目は輝かしい成果を伴って迎えることになった.この頃になると,分布や生態に関する知識も司成り蓄積されて,自分なりに分布の推察をし,実行することができるようになっていた.そうすると,すでに記録があるところで採集することに飽足らなくなり,新産地で採集してみたくなった.パイオニア精神が芽ばえてきたといったら,オーバーかも知れないが,まずそんなところである.

 私はさっそく,いろいろ昆虫について指導を受けていた葛谷健氏に相談することにした.幸いなことに,ウスバシロチョウの棲息の可能性がありながら,未だ記録が非常に少ない地方として岐阜県美濃地方があることを知ってホットした.まず"ここだ".私は力づけられた.4月のギフチョウの採集もそこそこに,私は5月のウスバシロチョウに重点をおき,地図と睨めっこを続けた.

 5月中旬のある日,私は越美南線の刈安というちっぽけな駅に降りたった.そこは周囲を500mくらいの山に囲まれた小さな町で,長良川によって二分されている.風もなく天気に恵まれ,絶好の採集日和.私の心はなんとなく浮き浮きしていた.一今日はひょっとしたら「山の妖精」に会えるかもしれないぞ一

 駅から長良川の支流である粥川に沿って30〜40分も歩くと,川幅も狭まり,ようやく山へ入ったという感じがしてきた.山腹には,麦とか野菜畑がひろがり,その脇に民家が点々としている.谷そのものはまだひらけていて,日光はすみずみまで行きわたっていた.私は周囲の景色に見とれながら,ゆっくりと星宮神社へ高度を上げていった.

 私がちょうど粥川を通して,向う岸から山裾に広がる麦畑に目を移した時,すばやくその銀色のすんなり伸びた穂の上を,いかにも落着き払って,超然と飛んでいる白い蝶をみつけた.スジグロシロチョウにしては飛び方が違う.「ウスバシロチョウだ」私は直観的にそう思った.緊張感でネットを握る手にも自然と力がはいる.私は急いで川原におり,対岸に渡った.麦畑は以外に遠かった.麦畑に立つと"山の妖精"は私に目もくれず,衣をひるがえすという調子で飛んでいる.私は気を静め難なくネットに入れることができた.全く平凡な出会いである.よく見るとあちこちで,のんびりと飛んでいる."山の妖精達"が目につく.どうもここは妖精達の城のようだ.私は腰をおちつけて採集することしにした.

 "山の妖精達"の城は,粥川に沿って点々とあった.私はあえて廃城にするのは忍びないと平等に城荒しをすることにした.でも,この辺り一帯が新産地であるということも手伝って,かれこれ50〜60頭採集したであろうか.終りころには,この神聖な妖精にもうんざりした.いきなり多産地を訪れたのは,私にも妖精にとっても不幸であった.それは無秩序な乱舞にすぎなかった.しかし個別にみれば気品ある蝶であるとは,いまもって私から離れない初印象である.そして山の妖精という私の想像は遠からずあたったと思っている.これ以後,いろんな所でウスバシロチョウにはおめにかかっているが不思議と麦畑で会うことが多い.これは,食草であるムラサキケマン類が,畑の畦道の向陽地に生えているためであると思われる.

 5月ともなって,青々と繁った,よく伸び切った麦畑をみると,それが平地であっても"山の妖精″の舞がそこで繰り広げられるのではないかという錯覚に襲われる.それほど麦畑と"山の妖精"とは,私には切っても切れない結びつきがある.今頃,"山の妖精達"はどうしているのだろうか.私は,またそろそろ会ってみたくなった.

 ちゃっきりむし No.6-7 (1966年5月15日)

  蝶の幼虫採集と飼育メモ 内藤孝道

 この4−5年間,蝶の幼虫の採集,飼育を行なっているが,これらに不慣れの方達にちょっぴり参考になると思われる点について記そう.
 なお,誤っている点があれば,ご指摘をお願いしたい.

  ギフチョウ
 黄緑色,あるいは白色透明の卵を含む卵塊からは,ふ化しないかあるいはふ化してもせっ食せずに死亡する幼虫が多いので,全卵そろって緑白色あるいは水銀黒色の卵塊を採集すべきである.なお,夏から春の羽化までの蛹の保管は,図のように二重飼育瓶を使用すれば潅水に気を使うことはない.

  ミカドアゲハ
 高知での経験では卵寄生蜂その他の原因によりふ化しない卵が多いので,1〜2令の若令幼虫を採集するのがよい.中令以上の幼虫は1〜2日の旅行でも影響を受け,まともな蛹にならぬことが多いので,採集はすすめられない.

 ナガサキアゲハ,シロオビアゲハ
 シロオビアゲハは10〜11月に20〜25℃で幼虫を飼育し,蛹化後も引続きこの温度に保って越冬させると4月中〜下旬まで羽化したい.しかし,ナガサキアゲハの蛹を11〜12月に野外から採集し,25℃に保ったところ全個体が大体年内に羽化した.

  ツマベニチョウ,リュウキュウアサギマダラ,クロコノマチョウ
 これらの種のように太くて半透明な蛹は,輸送中に打撲し体液の流出による死亡が多いので,輸送にあたっては充分なクッションを入れるべきである.

 アイノミドリシジミ,ジョウザンミドリシジミ
 これら冬芽の間にあるゼフィルスの卵は,冬芽付細枝数本分をまとめて握り,頂芽方向に軽くしごくようにして細枝の範囲をせばめて,頂芽方向からみると芽鱗の間の卵が一挙に見えて採集能率が向上する.これは長野県の浜栄一氏から実地に習った方法だが,冬季採集方法の定石であろう.

 サツマシジミ
 関東南部における5月中〜下旬のサツマシジミ幼虫の食草は,イボタの花蕾がよい.ガマズミ,ネズミモチの花蕾はまだ固くて好まず,サンゴジュはなおのことである.

 テングチョウ
 2令までは寄生はまずないが,中令以上のものはほとんど寄生されている.若令のものを採集すべきである.

  コヒョウモンモドキ
 ふ化直後からオオイスノフグリを好んで食べ蛹化まで食べ続けると考えられるが,夏季より20℃から15℃と温度を変えて飼育しても死亡個体は除々に出始め,越冬までの飼育は不成功に終っている.

 オオイチモンジ
 ポプラ,あるいは野生のポプラのような木(秦野では通称ドロと言っており,ポプラとヤマナラシの中間の形態の木)では好んでせっ食しない.飼育にはれっきとしたヤマナラシ,あるいはドロノキを用いるべきである.

 シータテハ,クジャクチョウ
 ふ化直後の幼虫,および2,3令幼虫を使用し,シータテハではエノキとコアカソを,クジャクチョウではカナムグラを試みに食べさせたが,まったく食べずに死亡した.

  コムラサキ
 秦野では,コムラサキは川や池に近いウンリュウヤナギにも多く見られ,越冬幼虫にもこれらのヤナギからかなり発見される.

 アカホシゴマダラ
 ふ化幼虫は,栄養の良いエノキの若葉よりも日陰の貧弱なエノキの幹から派生した細枝に着く小形で薄手の黒ずんだ葉を好んで食べ始めるので,この葉を使って中形シャーレーで飼い慣らしてから,野外のエノキに移すとよい.

 オオムラサキ
 秦野で越冬幼虫が発見される木は,谷状の川畔にあり,日当りは余り良いとは言えない.幹の直径20p以内,高さは3〜6m位の中程度のエノキである.このような木では落葉は適度に湿っている.