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<Webちゃっきりむし 1996年 No.107〜110>

● 目 次
 加須屋 真:三島市北沢湿地の現状 (No.107)
 新聞のギフチョウ報道に対して (No.108)
   毎日新聞社静岡支局長様 日本鱗翅学会監事・静岡昆虫同好会代表 高橋真弓 (No.108)
   「ギフチョウ捕獲 後絶たず」の記事に対する私見 静岡新聞社御中 清 邦彦 (No.108)
   静岡新聞社浜松総局長様 日本鱗翅学会監事・静岡昆虫同好会代表 高橋真弓 (No.108)
 福井順治:ロシア連邦・サヤン山脈東麓地方におけるトンボ類観察記 (No.109)
 北条篤史:分布調査のすすめ (No.110)

 ちゃっきりむし No.107 (1996年3月1日)

  三島市北沢湿地の現状 加須屋 真

 北沢湿地は三島市の南部,向山小学校と北沢ゴルフ練習場に挟まれた,幅100m,長さ300mほどの小湿地だ。ハンノキを中心とした湿地林を形成しており,チョウの研究者の間では,以前から知られていた場所である。

 この湿地については,やや特殊な成り立ちを持っており,そのことは,この場所を語るには,避けて通れない事柄である。
 大正中期というから,今から70年以上前,この場所に亜鉛の工場が作られた。操業を開始してまもなく,工場からの排気,排水の影響で周囲の植物がほとんど枯れ,農家では米がまったく収穫できなくなってしまったという。その光景は春なのに,まるで冬枯れを思わせる状況であったようだ。そんな理由から,わずか1年ほどで工場は撤退し,以後最近までほとんど手付かずのまま放置されていた。
 私が中学に入学した,30年くらい前は,工場跡地を見下ろす崖の上から,まったく植物の生えない部分がかなり多く見られたが,現在は植生の全く回復しない部分は以前よりもかなり狭い範囲になってきている。

 そんなわけで,いかにもトンボが好みそうな環境にも拘らず,1989年の4月にシオヤトンボの生息を確認した後は,全く調査をしなかった。理由はかつての公害の地にトンボなんかいるわけがないだろうという思い込みだった。とは言いながら,三島で,もしサラサヤンマがいるとしたら,ここしかないだろうな,という淡い期待もあるにはあった。ただしその時点で,サラサヤンマの県内での記録は静岡市以西に限られ,東部,伊豆では全く記録がなかった。

 1993年5月9日,私は野路会の大庭俊司氏,細田昭博氏とともに,狩野川のホンサナエの調査のために修善寺へでかけた。この年は記録的な冷夏になった年で,例年ならば5月の連休明けには,かなりたくさん見られるホンサナエが全く見られず,浜松方面に帰る両氏を車で送りながら,何も収穫がないまま帰っても‥‥。というわけで大した期待もないまま,北沢の湿地に立ち寄った。車を降りながら,「もしサラサヤンマがいるとしたら,ここでしょうね。」などといって,ハンノキの根元に生えているスゲに目をやった時,1個の羽化殻が目に入った。ほとんど同時に3人が「あっ」という声を上げた。まちがいなくサラサヤンマの羽化殻だった。あわてて3人で湿地に入り,あちこちを探すと,わずか30分ほどで34個もの羽化殻が採れた。しかも羽化直後の成虫3頭も!

 成虫が成熟し,湿地に戻った6月。福川順治氏が当地を訪れ,サラサヤンマの生息密度の高さに目をつけた。
 「サラサの幼虫を北沢で探してみませんか?」という福井氏の提案で11月,磐田南高の小野田君と3入で,北沢湿地に入った。サラサヤンマの幼虫については,生態解明が十分進んでおらず,どんな環境に生息しているのか,どうしたら採集できるのかよく分かっていなかった。
 採集を始めて2時間程が経過した。湿地の泥をすくって流水で流したり,湿地植物の根元を泥ごと掘り出して水で洗ったり,いろいろな方法を試みて見付からなかった幼虫が,スゲの根元の間をかき分けるようにすると現れる,湿地の窪みの小さな水溜まりの腐植質の間から,次々と発見された。記念すべき瞬間だった。

 暮れも押し詰まった12月30日,福井氏と私はまた北沢湿地を訪れた。神戸と愛知県から2名の研究者が,サラサヤンマの幼虫の生息環境を見,採集法を教わりに三島を訪れたのだ。私たち2人は慣れた足取りで湿地林に入り,わずかに窪んだ所の落ち葉を取り除くと,小さな水溜まりが現れ,腐植質を取り除くと,すぐにサラサヤンマ幼虫が見付かった。4人で2時間足らずで56頭の幼虫を採集できた。

 翌1994年8月。上空を飛ぶヤンマの中に,気になるシルエットがあった。高い所ばかり飛んでいて,なかなか採集できなかったが,3日目,ふらりと降りて来た所をうまくネットに捕らえた。もしやとは思っていたものの,まさかのネアカヨシヤンマだった。この他にもキイトトンボ,ミルンヤンマ,ヤブヤンマ,ヨツボシトンボ,ヒメアカネ,リスアカネなど比較的分布が限られる貴重なものが生息している。

 現在この湿地を,なんとか保護しようという運動が,地元の三島自然を守る会のメンバーを中心に始められた。北沢湿地生物調査委員会も結成され,井上智雄氏,本会会員の谷川久男氏,深滓政晶氏,また植物や鳥の研究者にも委員になっていただいて,総合的な調査を進めつつある。まもなく中間報告書も完成する予定だ。

 ただ,この湿地はある不動産会社の所有するところにあり,ここを開発すべく,準備を進めているようだ。現につい最近,湿地のヨシが広範囲にわたって刈り取られ,測量が始められたようだ。貴重な湿地であるので,ぜひとも保護したいものだが,状況から推察するに,今が湿地の運命を決する最も重要な時期のようだ。会員の皆様にもどんな形でも結構なので,この湿地の保護に手を貸していただければ幸いである。

 ちゃっきりむし No.108 (1996年7月10日)

  新聞のギフチョウ報道に対して

 1996年春,ギフチョウの保護について2つの新聞記事が出ました。1つは3月2日の毎日新聞朝刊静岡版で「乱獲防ぎ保護策探る ギフチョウを調査 芝川町が1年がかり」,もう1つは4月7日の静岡新聞朝刊で「ギフチョウ捕獲後絶たず 実質野放し天竜 条例で禁止引佐 市町境,打つ手なし 『天竜側で捕った』人山者言い逃れ」というものです。
 毎日新聞は,1991年にも,引佐町のギフチョウ保護に関し「ギフチョウ危機マニア乱獲」という記事を掲載し,本会会員のほか,日本鱗翅学会,日本昆虫協会からも抗議文が送られ,昆虫協会の設立趣意書の末尾にはこの記事が紹介され問題点が指摘されています。これに対し,静岡支局長,浜松支局長から『公平な取材という意味では配慮に欠けたことをおわびする』という意味を含む回答が寄せられていました。
 今回の場合,新聞も対象地域も別々ですが,どちらの記事にも共通した問題点があると判断されましたので,毎日新聞に対しては高橋真弓氏が,静岡新聞には高橋氏と清か,さらには日本昆虫協会も意見書を送りました。
 静岡新聞の編集局次長から清のところには「記事には,生息環境の保護が大切という視点が欠けていた」という内容の回答があり,高橋氏のところには取材に訪れ,4月23日の朝刊に「今を語る」というコーナーで,「生息環境悪化で激減」という見出しで高橋氏の意見を掲載しました。
 そのあいだ,「花粉症とギフチョウ」という,この問題を意識したと思われるエッセイを片井信之氏が静岡新聞紙上に書かれたり,女性相談室発行の情報誌「パンの耳」にも「蝶を守るためには山村文化の現代的復活が必要」という,高橋氏の意見が掲載されるなどの応援もありました。
 今後も各地で同様のことが起こり得る可能性があります。どのような姿勢で臨んだらよいか,参考のために,増ページをしてでも,会員の皆様にも意見の内容を知っていただいた方がよいのではないかと考え,以下,意見書の全文を掲載することに致しました。 (清)

  毎日新聞社静岡支局長様
   日本鱗翅学会監事・静岡昆虫同好会代表 高橋真弓

拝啓
 私は毎日新聞の愛読者で1994年3月に静岡県立の高校を退職して,蝶類の生物地理学と生態学の研究を続けており,蝶とのかかわりは50年余となります。さて,毎日新聞3月2日付朝刊の「乱獲防ぎ保護策探るーギフチョウ調査一芝川町1年がかり」についての感想と意見を述べさせていただきますので,ご検討いただけましたらさいわいです。

 この記事の主旨はマニアの乱獲”がギフチョウ減少の唯一の原因である,ということになっておりますが,私の意見はこれと異なりますので,つぎにその概要を述べさせていただきます。
 蝶の減少の原因については,日本の蝶・蛾類の分野で最高の権威をもつ日本鱗翅学会(創立1945年)が最近6年間にわたって,毎年蝶類保護のセミナーを開き,その原因を解明しつつあります。
 それによれば,蝶が減少する最大の原因は,その生息地の環境が破壊されるからであり,単なる採集行為によるものではないことが明らかになっております。また日本では採集によって絶滅した蝶類が一種もないことは周知の事実であります。ただし,同学会は,ごく小さな湿地に生息するヒメヒカゲのような蝶類は,大ぜいの採集者がくり返して行う集中的な採集行為によって絶滅の可能性のあることを指摘し,節度ある採集を呼びかけております。ともあれ,蝶を絶滅から守るためにまず必要なことは,その生息地を守ることである,というのが,今や’90年代における蝶類保護理論の主流となってきています。

 これに引きかえ,蝶は採集さえしなければ守られる,という考え方は,’70年代を中心にかなり大きな勢力をもっていましたが,今日では特殊な“自然保護”思想に固執する人びとのみの主張するところとなっております。蝶の繁殖力は,哺乳類や鳥類の場合とちがって非常に大きく,ギフチョウの産卵数をごくひかえ目に見積って100卵(実際には200卵ぐらいとされている)としても,まったく死亡することなしに3世代(3年間)をくり返すと,1ぴきの雌から,何と25万びきのギフチョウが誕生することになります。すなわち,1世代目が100ぴき,そのうち50ぴきを雌として,これらが産卵して生じた2世代目は5000びき,そのうち2500ぴきの雌から生まれた3世代目は25万びきとなるわけです。

 実際には天敵などの働きによって,その数は大幅に減少するわけですが,この一つの事例は,「蝶は環境さえ良くしてやれば,その数はおそろしいほど増加する」ことを示しています。
 ギフチョウはもともと里山的自然にすむ蝶で,原生林のような人の手の加わっていない原始的自然にはすむことができない蝶です。そしてその生息地は,炭焼き,たき木とり,落ち葉掻き,草刈りなどの,日本の伝統的な山村文化によって,無意識のうちに育まれてきたという性格をもっています。
 したがって,芝川町においてまじめにギフチョウを守ろうとするならば,まずスギ・ヒノキの人工林を適度に伐採して雑木林を復活させ,食草ランヨウアオイの生育や成虫の活動に必要な空間をつくりだしていかなければなりません。これには多くの費用と人手が必要になります。まさに山村文化の現代的復活です。
 ’50年代から’60年代にかけて,静岡市の竜爪山あたりから,庵原,興津,由比,蒲原,岩淵にかけての山地にたくさんすんでいたギフチョウが,’70年代の後半に,採集者が集中する産地とほとんど訪れない産地を問わず,ことごとく絶滅したのは,なによりも’60年代後半から目立ってきた雑木林の除去とスギ・ヒノキの植林,そしてその後の人手不足による森林の放置のためであることは明らかです。間伐も下刈りもせず真暗になったスギ・ヒノキ林の中には食草も生えず,ギフチョウもすむことができません。

 芝川町のギフチョウについては,’80年代の後半にスギ・ヒノキ林が広範囲に伐採されたために個体数が急激に増えました。この二・三年やや減少の徴しがありますが,スギ・ヒノキ林の適度な続けていけば,再び増加に転じる可能性は十分にあり,採集者が多少の採集を行ったとしても,絶滅するような心配はないと考えます。
 一部の人たちは,ギフチョウ1ぴきが,何と4〜5万円で取引きされるなどと,まことしやかに語りますが,これはまったくの“こけおどし”で,今かりに「町おこしでギフチョウの完全無欠の飼育標本を売り出したとしても,1ぴきせいぜい500円から800円ぐらいで,1ぴき1000円で売るのは難しい,というのが本当のところです。
 以上のことから,私は,今回の3月2日のギフチョウ記事の主旨は20年以上遅れた蝶類保護の考え方であるといわざるをえないと思います。今はもうそんな時代ではないのです。
 一方,車を無断で私道に止めてその地域の人たちに迷惑をかけたり,ひどい場合にはシイタケを盗んでいくような不心得者が多数の採集者の中に皆無とはいいきれません。このような行為にたいして,マスコミは魚釣りや山菜とりの場合と同様に厳しくとり上げるべきでしょう。これは今日の“アウトドア・ライフ”の基本に関することがらです。しかし私が強く主張したいことは,昆虫採集は魚釣り,山菜とり,キノコとりなどと同等の「市民権」をもっているということです。この点についてマスコミ関係者がとくに留意してくださるよう期待しております。

 私は現在,静岡県自然保護課から委託されて,県西部引佐町のギフチョウ生息地の調査を,静岡県の昆虫類調査で43年間の実績をもっ静岡昆虫同好会とともに実施中で,この3月下旬から成虫調査に入ります。
 今後,ギフチョウについて報道される場合には,必ず蝶類の専門研究家を取材し,とくに特殊な自然観のとりことなった一部“自然保護”論者の偏見に惑わされることなく,客観的な報道をされることを,せつに希望いたします。
 毎日新聞のますますの発展を期待しております。
    敬具  1996年3月6日

  「ギフチョウ捕獲 後絶たず」の記事に対する私見 静岡新聞社御中
   清 邦彦

 拝啓
 私は,日本鱗翅学会,静岡昆虫同好会,日本昆虫協会の会員で,静岡市内の中学校で理科を教えるかたわら,35年間ギフチョウの研究,つまり,なぜそこに分布するのか,なぜ生息できないのか,という研究と,自然保護運動を続けてきている者です,大学においても生物学科に在席し,ギフチョウの食草であるカンアオイを研究してまいりました。

 さて,御紙4月7日付け朝刊の「ギフチョウ捕獲 後絶たず」の記事は,一方的な取材で,ギフチョウの減少がまるで採集行為にあるかのような間違った認識を読者に与えかねない内容ですのでここに抗議すると共に,その内容の訂正をお願いするしだいであります。
 ギフチョウは落葉樹林の下草として生えるカンアオイという植物を幼虫が食べて育つチョウであります。静岡県をはじめとする太平洋側のギフチョウの分布域は,温暖,湿潤な気候のため,やがては常緑性の照葉樹林に移行してしまい,生息できなくなってしまいます。それが最近まで,それ程珍しいチョウでもないほど多く生息してこれたのは,まき,木炭,肥料,飼料などの供給地として,雑木林を中心とする『里山』が,計画的な伐採による若返りや下草刈りといった,伝統的山村文化によって守られてきたからであります。近年太平洋側地域でギフチョウが減少したのは,エネルギー革命などによって,里山の存在価値がなくなったため,荒れるにまかせたり,スギ,ヒノキの植林がなされ,カンアオイの成育にもギフチョウの生息にも不適となったためであります。

 一般に生物の保護というのは,生息環境の保護こそ大切であり,ことに短命多産多死の繁殖様式を持つ昆虫においてはなおさらです。したがって,生息環境の保護を伴わない天然記念物指定は,その生物の保護になんの効果ももたらさないばかりか,あたかも保護されているかのごとく印象を与え,真の減少原因を包み隠してさえしまうものです。

 昆虫の保護につきましては,魚釣りのように多くの国民がなじんでいないこともあり,誤った認識を持たれがちです。無生物である古美術品の場合はそれ自体を傷つけてはいけませんが,世代交代を繰り返している生き物の場合は,生きている「場」を守ることが大切になります。生き物を慈しむ「動物愛護」は人の心の在り方として大切なものですが,道徳的,宗教的,主観的なものであって,種の保存を第一とする客観的,科学的な「自然保護」とは異質であり,他人に同じ考えを強要したり,同一の場で議論できるものではありません。また,少産少死の繁殖様式を持つ鳥類,哺乳類では,個体の捕獲が種の存続に影響を与えることもありえますが,一世代の寿命が短く多くの卵を産む昆虫類ではそのような影響は普通ありません。このことは,身近な昆虫であるゴキブリでは理解が得られても,チョウ類となると鳥とイメージが似ているためか,誤解されがちです。

 どうか今回の件につきましては,昆虫の保護についての認識を改められ,内容を訂正されると共に,今後同様の記事掲載に当たっては,自然研究団体への取材を合わせて行うなどのバランス感覚を持っておこなっていただきたく,要望いたします。

  敬具 1996年4月7日

  静岡新聞社浜松総局長様
    日本鱗翅学会監事・静岡昆虫同好会代表 高橋真弓

拝啓
 4月7日付朝刊の「ギフチョウ捕獲 後絶たず」の記事を読ませていただきました。
 この記事について,先日,日本鱗翅学会会員・静岡昆虫同好会幹事の清邦彦氏から意見が寄せられたことと思います。なお,それと同時に,私の3月2日付毎日新聞記事についての意見のコピーが送られたはずですので,ごらんになったものと思います。

 さて,静岡新聞4月7日付の記事は,一方からの見解のみで取材されたもので,これと異なる意見はまったくとりあげげられておらず,まさに新聞記事として失格であるといわざるをえません。
 チョウ類の保護については,現在二つの意見がするどく対立しています。
 その一つは,チョウは条例などによって採集禁止にすれば絶滅から守れるという立場です。もう一つは,チョウを絶滅から守るためには,まずその生息環境を守ることであるという立場です。
 第一の立場は,近年では,’70年代を中心として哺乳類や鳥類を専門とする人たちによって唱えられ,当時日本自然保護協会もこの方向で自然保護運動を推進し,マスコミ一般もしばらくこの影響を強く受けていました。

 これに対して第二の立場は,これに遅れて80年代の後半あたりから昆虫類を専門に研究する人たちによって強く主張されるようになり,とくに日本のチョウ・ガ研究の代表的学会である日本鱗翅学会では最近6年間,毎年チョウ類保護のセミナーを開いてこの問題を解明し,専門家の立場から,チョウを守るためにはまずその生息環境を守るべきである,というチョウ類保護の基本方向を確立して環境庁や自治体などに多くの提言をしています。またチョウ類にかぎらず,他の昆虫類についてもこのような考え方が学界の定説になっています。私はこの立場をとります。

 では,チョウをただ採集禁止にしただけで,はたしてチョウを守ることができるでしょうか。
 鳥取市におけるキマダラルリツバメ(シジミチョウ科),長野県上高地のミヤマシロチョウ(シロチョウ科)などの産地では,これらのチョウを「天然記念物」として厳重に採集を禁止しておきながら,生息環境を守らなかったために,いずれも完全に絶滅してしまいました。生息環境が悪くなって絶滅したチョウの産地は,静岡県内では枚挙にいと間がありません。私自身,70年代後半,庵原・興津・由比・蒲原・岩淵などに分布していたギフチョウが,スギ・ヒノキの植林とその放置による環境の悪化のために急激に衰亡していったようすを,ほんとうに重い気持ちで思いだします。

 問題の引佐町のギフチョウの生息地の環境は,今日生存が確認されている芝川町や富士宮市の場合に比べて良好に保たれ,かなりの個体が発生しているところからみて,一部の「自然保護」論者がいうような「絶滅一歩手前の状態」ではけっしてありません。
 しかしその生息地は,私たちの調査や約30年前の航空写真などによるかぎり,全体として悪化の方向に進んでいます。これはスギ・ヒノキの植林と,生息地となっている雑木林の放置による群落の移りかわり(ササ類などの繁茂による森林の荒廃)によるものです。この地域では特殊な土壌条件によってその進行が比較的遅いので,それがギフチョウの生息に有利に働いていますが,数十年後にはさらに悪化して生息地の分断がおこり,ギフチョウは衰亡していくものと推察されます。今,適当な方法で環境を改善してやれば,個体数はいっそう増加する可能性をもっています。それは,スギ・ヒノキ林の間伐と雑木林の手入れによって環境を明るくしてやることです。

 一部の「ギフチョウ保護」を唱える人たちは,引佐町におけるギフチョウ減少の原因は,もっぱら採集者による乱獲にあると主張しています。これらの人たちのギフチョウを守ろうとする善意はまことに尊いと思いますが,かれらは他産地におけるギフチョウ衰亡のようすを知ろうとせず,非常に狭い視野と,きわめて特殊な,一種の宗教的といってよい生命観によって,科学的でなく心情的に「保護活動」を行っているとしかいいようがありません。

 私は,これらの人たちが「ギフチョウ条例」のある引佐町内でパトロール活動を行うこと自体,この条例が存在するかぎり否定しません。しかし4月7日付の記事によると,かれらはギフチョウが生息している数よりも,何人の採集者が訪れたかということに関心があるようです。保護活動の基礎は,あくまでチョウの生態調査であり,警察官のようにふるまうことではないはずです。

 天竜市でも条例を,というのが今回の記事の主張のように読みとれます。しかし,これについては,天竜市は独自にギフチョウ保護を考えるべきで,何も引佐町と同一の歩調をとる必要はまったく必要ないと考えます。

 いずれにしても,野鳥やウミガメ保護での考え方を,そのまま繁殖力がけたはずれに大きい昆虫類に当てはめようとするやり方はけっして科学的ではありませんし,またそれは20年以上遅れているといわざるをえません。「ただ採集禁止をすればチョウを守れる」という考え方は,90年代に入って全体としては勢いを失ってきていますが,このような科学的根拠に乏しい短絡的な発想は,むしろギフチョウそのものよりも早く衰亡していくにちがいありません。

 ギフチョウの保護論議はこれで終わったわけではありません。二つの対立した立場からの厳しい論議はまだしばらくは続くことでしょう。今後,一方の側からではなく,多面的な取材をし,より良い紙面をつくられるよう心から期待しています。

   敬具   1996年4月11日

 ちゃっきりむし No.109 (1996年9月11日)

  ロシア連邦・サヤン山脈東麓地方におけるトンボ類観察記 福井順治

 筆者は今夏,第9次昆虫調査隊(木暮翠隊長)に参加し,口シア連邦(口シア共和国,ブリヤート共和国)のシベリア地方バイカル湖からモンゴルの国境の間に位置する地域,地形的にはサヤン山脈の東麓一帯にあたる地域において,昆虫相の調査をする機会を得た。

 日本の生物相の起源は大陸にあり,日本人研究者自身による大陸での生物調査の知見は,日本の昆虫相並びに各種ごとの生態的研究に極めて有益な情報を与えてくれるものと考えている。実際の所では日本に広く分布する種の多くは,大陸では中国及び朝鮮半島との共通種であり,これらの諸国からの情報量がそのまま日本の昆虫の分類的研究の進展速度を決めている感すらある。そしてそれはあいかわらず不足気味のままである。

 一方,シベリア地方は日本〜欧州を含む同じ旧北区といっても,北海道や本州中部以北の山岳地域との共通性があり,我が国の北方系生物種の故郷とも言えるところである。したがって北方系種や高山性種の昆虫の研究をするならば,シベリアは極めて魅力的なフィールドといえる。さらに口シア連邦は,現在でも国内事情は激変の最中にあるが,近隣諸外国の中では比較的自由に,外国からの生物調査を認めてくれる国でもある。そんなわけで,これまでに日本人研究者が昆虫調査に入ったことがないと考えられるサヤン山脈東麓地方を選び,昆虫調査を計画することになったのである。

 というような話は,今回の調査が筆者としては初めて(そして申し訳ないことに筆者だけが)旅費を支給されての「海外研修」として出かける以上,しっかりした位置付けが必要だったので書いてみたが,正直なところ,事前の情報では山岳地帯で草原と森林だけの地域かと思ったり,大規模な山火事があったというので,焼畑耕作地のようになったところを想像したり,当初に滞在を計画したモンドゥイは標高が高くて(なぜか山火事を理由に宿泊できなくなってしまったが。),トンボ類に関してはあまり大きな期待はできない場所のようにも思っていた。今回の地域の近くではこれまでにもバイカル湖('86),フブスグル湖('94)での調査をしていて,それぞれかなりの成果を得ている。したがってよい環境が見つかれば,個体数はかなり多いので生態観察や撮影は十分に行えるものの,たくさんいる種はおそらくタイリクルリイトトンボ,アオイトトンボ,ルリボシヤンマ,エゾアカネなどと予想されるので少し新鮮味に欠ける気もしていた。それでも,寒地性の青いイトトンボ類やルリボシヤンマが群れ飛ぶ湿原は見ているだけでも十分魅力的であり,行けばどこかにそんな場所もあるだろうとの期待をもって出発することになった。

 今回主に調査したところは大きな地形的には,サヤン山脈の支脈のトゥンキンスキェ山脈の東麓にあたり,バイカル湖より流出するアンガラ川の支流のイルクート川の流域であった。イルクート川流域には平坦部が広がり湿原もあるようだが(結局広大な湿原を目にすることはなく,おそらく牧草地に変ってしまったのだと思う。),山脈部分はカールがよく目立つ標高3、000 mに近い険しい山陵で,登山道はないとのことであった。

 7/24(水)新潟からのアエ口フ口ートは2時間おくれで18:40にやっと飛び立ち,なんとかその日のうちにイルクーツクに着いた。ところが,例によって入国までに念入りなチェックがあり,ホテルについたのは9時をかなり過ぎていた。こっちに来たからには,気分も大陸的にゆったりしていなければと思うが・・・・・。

 7/25(木)曇り時々雨。8:30に出発し口シア共和国のイルクーツクからバイカル湖を経由してイルクート川を遡りブリヤート共和国に入り,3日間宿泊するアルシャンまでの間の流域の調査をした。チャーターしたミニバスで移動しながら,地形,植生,天候を考慮しながら随時バスを止め,草原や森林,湿原に入って採集を行った。この日は移動距離が長かったし,天候もよくなかったが,途中で採集したクルトゥクでは羽の透明なトンボは全く見られず,エゾシロトンボ,クモマベニトンボ,ヒョウモンモドキトンボ,カラフトルリトンボなどを採るしかなかった。また,今回の調査全体を通じて,草原や森林の中には猛烈な力(蚊)がいて,ひどく刺された。防虫スプレーも持参して対抗しても,長くは効果が続かないのでたびたび使わなくてはならず,調査の効率が悪くなるので多少はがまんするしかなかった。
 到着したアルシャンにも池や湿原はなかったが,意外なことに渓流沿いにルリボシヤンマ類がたくさん飛来していて,ネットを休める暇がないくらいであった。この中にタイリクオオルリボシヤンマ(A.crenata)とシベリアオオルリボシヤンマ(新称 A.serrata )が混飛していたので,それを選びながら採るのは大変だったが,とても楽しい採集ができた。アルシャンは各所からミネラルウォーターの湧き出ている保養施設(国民休暇村のようなもの?)で針葉樹林帯の中にあり,昆虫はあまり見られないところだった(オサムシトラップも不調)。

 7/26(金)雨のち曇り一時晴れ。 10:20にアルシャンを出発し,さらにイルクート川を遡り,モンゴル国境まで数kmの国境の村モンドゥイまでを往復した。モンドゥイでは国境警備施設で警備兵が双眼鏡でこちらを見張っていた。この日の調査の中心はモンドゥイの草原,ここまでの範囲であちこちに山火事の跡はあったものの,影響は小さいと思われた。モンドゥイの草原は名前が似ているからでもないだろうが,国境を隔てたモンゴルの草原を思わせるもので,ウシやヒツジの放牧の程度が少ないところでは,日本の高山や高原に見られる植物が咲き乱れていた。ヒエンソウ,アズマギク,マンテマ,ワレモコウ,マツムシソウ,ウスユキソウ,タカネコウリンカなど日本でなじみのある草花が多かった。昨日に続いてここでも羽の透明なトンボはほとんどおらず,赤い星のあるノミオンヤンマ,オオゴマトンボ,コヒョウモントンボなどを採っていた。隊長は帰路,懸案のこの付近にあるらしい不明な地名の正体をつきとめることに成功した。18:30アルシャン帰着。夕食は20:00なので,夕方になると宿舎付近に飛来するルリボシヤンマ類を,昨日に続いてねらい,きれいなシベリアオオルリボシヤンマをいくつか採った。

 7/27(土)晴のち曇りのち雨。10:10にアルシャンを出発し,この日は草原で羽に粉のあるトンボをねらう人たちと別れて,羽の硬いトンボをねらう平井克男氏と2人で,昨日モンドゥイに行く途中で発見したトゥランの近くの湿原を調査する。ここはイルクート川の脇にできたかなり広い湿原であるが,河川の蛇行で取り残された河跡湖のようなもので,水温は冷たく水生昆虫類は非常に少なくほとんど調査不能であった。また,朝のうちは天気も良かったが13時ころには曇りとなりやがて雨となった。湿原ならば雨でも調査できるのでと,救出に来たバスを見送り,一人残って約5時間も水に浸かっていて,身体が冷え,腹をこわし風邪気味となってしまった。この高層湿原は期待通りトンボが多く,湿原を歩くとルリボシヤンマ属以外にも,モリトンボ,タイリクヨツボシトンボ,カオジロトンボ,チョウセンイトトンボ,カラフトイトトンボなどが湧き出るように飛び出した。ただ,残念なことに天気が悪くなると一斉に姿を消し,写真をとる時間はなかった。

 7/28(日)曇り一時雨。10:20,3泊滞在したアルシャンを引き上げ,再びイルクート川を下ってイルクーツクまでの間を調査した。まず,アルシャンからの道がイルクート川と出会うところにあるトゥンカの小湿地を調べ,次いでズンムリノ,シュルタ,クルトゥクなどに立ち寄りながら随時車を止めて森林や草原の中を調査した。筆者はこの日は昨日の無理がたたって食欲不振で絶不調,足取りも重いので車を止めたあたりをうろついていた。トゥンカの小湿地はアオイトトンボの中にエゾアオイトトンボが1割くらい混じっていて,適当にネットですくっておいて後から選り分けて採集した。それ以外の場所では羽の透明なトンボはほとんど見られず,森林や草原の中では植物の写真を撮ったり,ギンボシヒョウモントンボ,エゾスジグロシロトンボ,フタスジトンボ,コヒオドシトンボなどを採っていた。頭痛をこらえて林道に出たら,目の前に吸水にきたオオイチモンジヤンマがいた。18:00イルクーツク着。

 7/29(月)晴れのち曇りのち雨。 9:15ホテルを出発。イルクーツクの市街地を抜け,アンガラ川沿いにある街,アンガルスクからその支流キトイ川に沿って山地帯に入った。途中で随時採集しながらタリヤヌイまでを往復した。タリヤヌイはかつては林業の基地となっていたという小さな集落で,川沿いに池や小湿地が点在していた。たいへん面白い環境だったが,残念なことに時間がわずかしかなく1つの湿地を調べただけで終わってしまった。その湿地は,ゴミも捨てられている小さな湿地なのに,日本では稀種のカラフトイトトンボが結構たくさんいて産卵も見られた。その他シベリアイトトンボ,チョウセンイトトンボも混生していたし,アカネ類もタイリクミヤマアカネ,エゾアカネ,ムツアカネ,イソアカネの4種が確認できた。ただしイソアカネは極東亜種マンシュウアカネと思われる個体をアルシャンで採っているので,少ししか離れていないところに別亜種がいるのも不思議で,この地域の個体群をどの亜種に扱うかについては困ってしまった。 18:00,イルクーツク着。

 7/30(火)晴れ。午前中はイルクーツク生物学研究所訪問。応対した所員は生物防除の専門家であり,農業技術において,微生物を用いて作物の害虫を退治する研究をしていた。ちょっと畑がちがうので,ちがう部署?に連絡をとってもらい,古い昆虫標本の所蔵庫の閲覧をさせていただく。標本の写真撮影もOKだったが,トンボ類はルリボシヤンマが1頭あっただけだった。午後はイルクーツクの市街地から東方のバイカル湖の北側の山地を目指した。ウシャコフカ川に沿って山地帯に入り,ドブロレート付近の草原と森林の境界で採集をした。小さな水たまりでモリトンボを採ったくらいで,あとはうじゃうじゃいるベニヒカゲトンボやクジャクトンボを採ってすごした。この日は市街地散策のため,15:20,イルクーツクヘ戻った。

 7/31(水)8:00イルクーツクのホテル出発。 10:30イルクーツク空港発。 15:10新潟空港着。

 今回の調査は8人の昆虫関係の同行者とともに実施したものである。それぞれ対象とするグループが異なり,研究テーマも異なるので,調査場所の選定はたいへんで,1人だけ羽の透明なトンボを求める者としては,みんなにいろいろ気を使っていただいたことを有難く思っている。自分の目標からは不向きの所に見えても,何と言っても未知の場所であるから,どこに何がいるかわからない。筆者にとってはトゥランとタリヤヌイは最高の場所であったが,いずれも偶然に見つかった湿地であった。こうした調査隊ではそれぞれの場所で,協力できるところでは一緒に調査をすることで,自分にとっても意外な発見を期待できるからこそ魅力的なのだと思っている。

 ちゃっきりむし No.110 (1996年12月25日)

  分布調査のすすめ 北条篤史

 今から30年ほどまえに東京在住の静岡昆虫同好会の仲間が,上野公園の近くにあった喫茶店「タカオ」に集まって,蝶の研究会を毎週金曜日に行なった。これが「タカオゼミナール」の出発である。年寄り順に,田島 茂,木暮 翠,牧林 功,原 聖樹,清 邦彦,鈴木英文の諸氏であった。  私はこの集まりで,山梨県における蝶の分布調査をやろうと徹底して話し合った。当時(1964年頃)は静岡県における蝶の分布調査は種別にも地域別にもかなり進んでいたが,山梨県の分布調査はあまり報告されていなかった。静岡からは,車を持ってなかったし,JRで甲府盆地周辺へ日帰りで調査に行くのは困難であったためである。そこで東京からなら甲府盆地周辺や奥秩父周辺の日帰りの調査が可能であると皆なで話し合った。「奥秩父の未調査地域にどんな蝶がいるか,片端から調査して,新記録を出してやるぞ」と仲間がみんな一斉に昆虫少年となって,甲府盆地北部と奥秩父周辺の分布調査を開始した。

 この時「タカオゼミナール」で私が考案した「地図板」が調査の打ち合せにとても役に立った。国土地理院の20万分の1「甲府」のカラー地図をコルク板に貼り付けたものだ。この板に,展翅に使う玉針を用意する。例えば,アサマシジミの分布調査をやろうとみんなで決める。そして「地図板」に山梨県のアサマシジミの既知産地を赤色の玉針でプロットする。次に皆んなで,発見できそうな場所を青色の玉針でプロットしてゆく。この時のプロットの根拠など各自それぞれで,わいわいと激論したりして実に楽しい。原 聖樹さんなど「地図板」を自分で抱え込んで離さなくて,清さんに「原さん,他の人の意見も聞いて下さい。『地図板』を離してよ」なんて言われていた。発見予測地がプロットされると,ここは田島さん,こっちの場所は英文さんが調査をやると,それぞれ自分の行きたい場所を決めて出掛けてゆく。来週の「タカオゼミナール」でその結果を発表し合った。こうした調査が10年以上も続いて,山梨県における蝶の分布が大変明らかになってきた。

 現在はコルクの代わりに,ハリパネ板に20万分の1の「甲府」「静岡」「豊橋」を貼った「地図板」を使っている。最近は「静岡」の地図板を使って,静岡県の低地帯のスギタニルリシジミとミスジチョウの分布調査をやっている,高橋真弓さんと張り合って調査しているが,今年は高橋さんに成果で随分と差をつけられた。来年はあっと言わせる新記録を出してやろうと「地図板」を眺めている。

 この「地図板」と玉針のプロットは自分の好きな蝶の分布を知るために大変便利だ。さらにその地域における分布の変遷を見るのに役立つ。静岡県におけるウスバシロチョウの分布を「地図板」にプロットしてみよう。40年前のウスバシロチョウの産地を赤色の玉針でプロットしてみると,安倍川,大井川中流以北が分布の中心で,富士山周辺は猪之頭と麓以外ほとんど記録がなかった,ところが40年後のウスバシロチョウの記録を青色の玉針でプロットすると,ほとんどが富士山周辺の記録であり,安倍川,大井川流域からの新しい産地がほとんどないことがわかる。「地図板」の赤と青の針のプロットによってウスバシロチョウの40年における分布の変遷が一目でわかり,今後の分布について考えると興味深い。

 最近,海外への採集行が盛んで,国内の採集も人気種の既知産地に集中していて,未調査地域への採集行は流行らない。しかし,自分の好きな蝶を新しい場所で見つけようと思ったり,行ったことのない未知な山渓にどんな蝶が採れるだろうと「地図板」に玉針を差し込んでシーズンを待つのは楽しい。そうして得た記録は「駿河の昆虫」の「インセクトノート」の格好の報文となる。ともあれ,新年会(平成9年1月18日)までに「地図板」を作って,正月休みに矩燧に入って,アルメニアのアララットコニャックをちびちびやりながら,今年のスギタニルリシジミの調査はどこを攻めようかなと玉針を刺しながら「地図板」を眺めるのは実に楽しい時である。