静昆 ホーム 紹介 会誌 ちゃっきりむし 掲示板 リンク

<Webちゃっきりむし 1999年 No.119〜122>

● 目 次
 枝 恵太郎:キョウチクトウスズメ採集記 (No.119)
 平井克男:分布拡大中のラミーカミキリについて (No.120)
 北條篤史:タツミの親父さんが,亡くなった (No.121)
 木暮 翠:「分布形成史の復元」への想い (No.122)

 ちゃっきりむし No.119 (1999年3月1日)

  キョウチクトウスズメ採集記 枝 恵太郎

 10月ある日,清邦彦さんから雙葉学園で図鑑に載っていない緑色のスズメガが採れたというので,その写真を見せてもらいました.それはまごうなきキョウチクトウスズメであり,地球温暖化もかなりの速度で進んでいるなとその時思ったのであります.

 それから半月後,浦山幸夫さんから吉田町のとある工場で,植栽されたキョウチクトウ林が丸坊主となり,モスラの幼虫が工場の敷地内を閑歩しているという連絡そこで,杉本武さんと一緒にタッパ(大)2個を持参して,モスラ退治に行ってきました.

 11月1日,半信半疑で現地に行くと,なるほどキョウチクトウは枯れ木となっていました.しかし,どうも農薬をかけられた直後だったようで,モスラ達は皆とろけるような死体の山となっていました.工場の人の話によると,ここ何年か発生しているようだとのことです.キョウチクトウの根際をかき分けると,出てくる出てくる蛹のお宝が.図体は大きくても所詮ホウジャクの仲間なので,蛹は地表でゴロ寝をしています.久しぶりの大漁に熱くなり,タッパ(大)はアッという間にいっぱいになってしまいました.採集欲が満たされ冷静になってみると,古い羽化殻がいくつも見つかり,ここで世代交代が行われている可能性があることに気がつきました.

 そして,第2のポイントヘ転戦.ここの工場は休日で誰もいないので,堂々と敷地の中で蛹を掘っていると近くの農作業の老夫婦が興味半分,不審者の疑い充分の顔つきで何をやっているかを尋ねてきました.最初は適当に受け答えしていたのですが,しつこく尋ねるので珍しい虫であることをとくとくと説明した後,そのうちテレビで放送されますよと言ったら納得して帰っていきました(皆さんご存じのとうり,雙葉学園の一件は「大きく」1月23日の静岡新聞夕刊に掲載されました).

 結局,私は100個ほど蛹を採り,蛹化間際の終齢幼虫も20個ほど持ち帰りました.幼虫は本当にあの堅くて臭いキョウチクトウをもりもり食べていました,私の蛹は低温には強くないようで,北向きの部屋に置いていたら,死ぬ蛹がいくつも出てきたので,家の中で一番暖かい台所の食器棚の上に移動させました.1月15日から羽化が始まったのですが,意外と成虫は小さく,ウンモンスズメくらいのも出てきています.ダブレラの世界のスズメガ図鑑のイメージからはかけ離れた大きさでありました.私の家では年内にすべて羽化しましたが,杉本さんの家では屋外へ出している蛹もまだ生きているということでした.はたして,越冬できるのでしょうか?

 ちゃっきりむし No.120 (1999年4月30日)

  分布拡大中のラミーカミキリについて 平井克男

 現在,自然環境の急激な変化に伴い,棲息があやぶまれている種や姿を消してしまった昆虫類が少なくない.そんな中で県内において棲息分布を拡大しているラミーカミキリは稀有な例といえる.江戸時代後期に中国から入ってきたという帰化昆虫で,徐々に分布を拡げ,現在では関東以西に分布している.大きさは10mm〜14mmで青緑色か黄緑色に黒の斑紋があり,まさに「動く宝石」である.

 静岡県においてはかつて稀種とされ,1981年熱海での記録が最初であった.以降県東部から少しずつ記録が現われ始めた.神奈川県西部から分布拡大されてきたものと思われている.駿河の昆虫No.176にて筆者が「ラミーカミキリの分布拡大の現状について」を発表したが,’90年大仁町・小山町,’91年由比町,’92年蒲原町・富士川町,’94年清水市,’96年静岡市平山,焼津市高草山山麓で確認され,確実に県東部から県中部へと分布の拡大が見られている、’98年現在県中部で新産地が更に見つかっており,今後の調査が期待される.

 一方,県西部地区では正確なデータがなかったが,過去天竜市,水窪町で採集されたという話は聞かされていた.’96年に引佐町,’98年に水窪町で本種が確認され,西部地区でも分布拡大の傾向がある.県西部地区における進入経路については,今のところはっきりしないが,もともと生息していたものが拡大していったのか,愛知県から入ってきたものか,なぞである.今後未記録地域である藤枝市以西浜松方面にかけての低山地での調査により,西部地区でのなぞがとけるかもしれない.

 ラミーカミキリはカラムシ,ムクゲ,ヤブマオなどの植物を後食することが知られているので低山地に多いこれらの植物を5月後半〜7月頃まで,見まわることをぜひおすすめします.そして記録をぜひご一報下さい.カラムシはアカタテハの食草です.チョウをやっている方,ぜひご協力ください.

 ちゃっきりむし No.121 (1999年10月15日)

  タツミの親父さんが,亡くなった 北條篤史

 8月10日に,タツミ製作所の親父さん,瀬戸益太郎氏が亡くなった.

 木暮翠大兄から電話で訃報を知らされて,たいへんに驚きうろたえた.今年の春に標本箱を買いに伺ったときには,車椅子でしたが元気でいらっしゃったと思った.とにかく,親父さんと親しい静岡の仲間に連絡を取らなければと,電話をした.みんな大変に驚いていた.

 通夜と葬儀は文京区白山の蓮久寺でしめやかに行われた.葬儀の受付には前波鉄也さんがおられて,実に30年振りの再会であった.これは,本当にタツミの親父さんの引き合わせだと思った.静岡から高橋真弓さんがいらっしゃった.タカオゼミの仲間で通夜には木暮翠さん,葬儀に大島一美さん,牧林功さん,斉藤洋……さんがいらっしゃった.葬儀が終えて,弔電のなかで清水の鈴木英文さんからの弔電が読みあげられた.親父さんの写真は眼鏡を下にずらして,いつもの眼差し,鋭いがどこか茶目っ気を含んだあの澄んだ眼差しの顔でした.

 葬儀のあと,前波さんが親父さんは9月で82歳だったと話してくれ,ロシア革命の年に生まれたとおっしゃった.前波さんの話では,タツミ製作所の由来は,親父さんの父が辰年で,親父さんが巳年なので「辰巳」でタツミ製作所と名付けた由.前波さんの話にみんな感心し,親父さんの生前の思い出や製品のすばらしさについて語り合った.とくに,タカオゼミナールを作ってから,タカオゼミが上野でタツミの湯島と近いため仲間で親父さんの家に上がりこみ親父さんを交えて,蝶の分布調査の話から取組の姿勢についても議論しあい,はては大切な標本の管理には永久に保存できる標本箱が必要であって親父さんはその標本箱をめざしているのだと僕らに言い聞かせた.さらに,標本づくりの基本で大切な展翅板は各種の蝶に合ったもので,乾燥や湿気などでぶれない堅牢でなければいけないと力説していた.だからこそ,あの厚板のどっしりした展翅板のおかげで何十年も狂わない標本が出来るのだ.みんな思い出話にふけり,こうして久し振りに会えたのも親父さんの引き合わせだなとありし日の親父さんを偲び,タツミの標本箱のおかげて今まで無事に標本が保存できたしこれからも大丈夫だね.みんな親父さんの確かな製品のおかげでどれほど大切な標本を残したか,感謝の気持ちでいっぱいだった.

 現在はお嬢さんが,親父さんのあとを続けられる由,すばらしく堅牢な標本箱や展翅板が製作されることを期待します.タツミの親父さんのご冥福を祈ります.

 合掌。

 ちゃっきりむし No.122 (1999年12月20日)

  「分布形成史の復元」への想い 木暮 翠

 日本の昆虫類の分布調査は,そのかなり大きな部分がアマチュアの人たちの活動によっており,経費・時間・体力等の消耗をものともしない意欲たるや将に偉大なものだ.

 この仕事は一般的に“現在における”ことであって,ある1日を選んでの場合もあれば,年間をとおしてのような場合もある.これらの成果は「駿河の昆虫」をはじめ各地の同好会誌や商業誌に発表されて,ゆくゆくは各種規模の地域のフォーナ編さんに寄与することになる.フォーナは単なるリストであるだけにとどまらず,変動する環境のようすを示す証言になったりもするので,分布調査は重要な仕事である.したがって,ここで言うところの“現在”の時間の幅は,例えば30年とか40年くらい前までを想定することになるかと思う.社会変革やそれに伴う自然環境の変化のことを考えると,“50年くらい前”は「少し昔」と言ったところだろうか.それはともかく,不正確・不充分な内容であるにせよ,分布調査の報告が発表されるようになったのは雑誌「昆虫世界」あたりからかと思われる.そして,日本という狭い国土ながら,分布調査はまだまだ継続されて,50年後・100年後などの時点での「現在における」調査結果が,いろいろな雑誌に発表掲載されるだろう.

 ところで,分布調査の仕事にはもうひとつ大きな分野があることを指摘しておきたい.それは千年単位ないし数百万年・場合によっては千万年単位の“大過去”のことで,現在みられる分布の様相がどのような過去を経て形成されてきたのか,それを知りたいではないかということである.すなわち「分布形成史の復元」である.花粉分析のような,ある地域のある時代の植物相を調べる仕事もなかなか大変なことだと思うが,遺体とか化石などの直接的な資料がほとんど全く得られない昆虫類について,分布の経緯を検証してみたいなどと考えるのは時期尚早かもしれないし,友人のS氏は「地史に頼って分布形成史をつくったところで,所詮それは砂上の楼閣だ」と批判してくる.たしかに過去の時代の状況を考察するための認識が不充分のままで,日下論争中の地史的問題についても自分の立場からの判断をせずに,特定の意見のみを自論にとりこもうとする傾向が我われのなかにあるように思う.例えば,「リス氷退の海退で姿を表わした陸橋を伝って,ベニヒカゲは大陸から日本列島に渡来した」という程度の内容の話で何となくわかったような気分になることだ.仮にこの話に多少の尾鰭をつけたところで事態は大して変わらないかもしれない.

 しかし私としでは,いつまでも尻込みをしていては物事ひとつも前進しないと考え,敢えて砂上の楼閣”の建築に着手したいと思う.50年近く続けてきて,特に北海道ではこれまで約250地点の記録に達することができたE.nerieneの分布調査は,これはこれでひとつの仕事であるが,これに国外産同種のデータ(木暮,1997)も加えて「分布形成史の復元」の問題を見据えてみたいのだ.

 その手順の第一段階に考えられることは,「古環境の復元」の研究が現在どのように発展しているか,そのことを認識すること.我われ昆虫関係の人たちのもっている“過去の時代に関する情報”は,私が見まわした範囲のなかでは非常に乏しい.過去のことについて知るためのマニュアルがなく,少し考えただけでもわかるように「どういうことを,どのように捉えたらよいか」の問題提起そのものが我われの側にない.しかしこの現状は,いわば我われの側の(極言するなら)怠慢によるものであり,実際には我われが学びとるべき資料ないし知識は非常にたくさん存在している.例えば,花粉分析とカーボン14年代のことだけで充分と思えたのは数十年前の話で,今その資料だけに頼っていたら笑いものにされてしまうだろう.氷期の海退量も,“140m” 説のほかに120m説・100m説・80m説などが厳しい論争をしている.火山噴火に関すること,地形形成に関すること,土壌に関すること,はたまた考古学に関すること等いくらでも「分布形成史の復元」のために,参考になるあるいは無視してはならないことがある.

 第二段階として考えるべきは,近年急速に成果をあげている「mt(ミトコンドリア)DNAによる系統分析」のことである.この研究方法によって私が兼ねてより主張してきた「日本産ベニヒカゲ類の分布系統二元論」が,どうやら本当らしいことがわかって(新川ほか,1998),意を強うしているところである.発祥の地と考えられるアルタイやサヤンから分布を東にのばし,サハリン経由で北海道に入り渡島半島白神岳に到達したキタベニヒカゲ,本州産として分化したベニヒカゲ等で,個々の産地がいつ・どのようにして形成されたか,説明できるようになりたいものである.

 第三段階として,我われのほうからも現在保有している分布資料の情報を逆に発信して,古環境問題の研究者とタイ・アップしてゆくことが必要ではないかと考える.例えば「北海道のブナは,種子が鳥によって津軽海峡を運ばれて渡ったのだ」とする説があるが,その著者はフジミドリシジミのことを知らないらしい.その他,昆虫の分布資料で彼らの研究に役立つものがある筈だ.彼らは古環境の復元のために遺跡の発掘やボーリングで得られた資料を専らアテにしており,現生生物にも隠されたヒントがあることを知らないかもしれない.従って,我われの資料が彼らにも活用されれば彼らにとっても新しい展開があり得ようし,それによって新しい成果があがれば我われの側の「分布形成史の復元」も「砂上の楼閣」から少しは倒壊しないで済む強度の建物にさせられるかと期待している