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<Webちゃっきりむし 2002年 No.131〜134>

● 目 次
 清 邦彦:虫から自然へ・そして科学へ (No.131)
 鈴木英文:はるかなるツマキチョウの呼び声 (No.132)
 木暮 翠:LSJ青森大会参加にあたって (No.133)
 高橋真弓:静岡昆虫同好会の50年 (No.134)

 ちゃっきりむし No.131 (2002年2月17日)

  虫から自然へ・そして科学へ 清 邦彦

 「なぜ昆虫が好きになったのですか?」よく聞かれる質問である.たぶんだれも,本当は特別な理由などはないのではないか.子どもはみんな鬼ごっこと同じように虫や汽車や花や人形が好きなのだと思う.「なぜ?」と聞くなら「どうしてそれを大人になっても続けているのか?」だろう.鬼ごっこをやってる大人がいたらきっとそれなりの理由があるはずだ.

 子どもの本能的な遊びの虫採りや草花遊びは小学校の「夏休みの宿題の昆虫採集,植物採集」として理科の学習の中に位置づけられ,やがて科学部,生物部の「研究」として社会に認められてきた.そういう流れの中で,自然とか科学の世界に入っていったから,自然保護論も地に足をつけて考えられるし,科学者も本当の自然をバックに持って研究できるのだと思う.

 でも,学校は建前が優先するところがあって,採ってもいいかどうか面倒な議論が出てくると,ひとまとめに「自然には手をつけないように」といったきれいごとが通ってしまう.その方が楽だ.学校の宿泊行事のきまりなんかにもたいてい「自然を大切に」という項目がある.

 今,どうやって子どもたちを,自然のなかに引き込んでゆくか,それを考えたい.虫採りはそのいい方法のひとつだと思う.今の時代,子どもをほっておいたら,苦労しないでも楽しい思いができるゲームに走ってしまうから,自然に接する機会を意識して作らなければならないと思う.教育というのはそういうほっといたら育たないものをさせることかなと思うのだけれども,近ごろの学校は先生が虫離れしていたりしてやりにくい.

 見るだけの自然観察では子どもは楽しめない.観察が楽しいのではなくて,いい子でいたいから観察しているのだと思う.本当に楽しいなら,思春期,反抗期になっても続けているはずだ.子どもが本当にのめり込める自然体験というのは,原始的な本能につながっている,全身を使って感じた感動体験だと思う.息を切らしてやっと虫を捕まえたとか,汗かいて登っていったら見たことのないチョウがいっぱい飛んでいたとか,一日中対決してやっとトンボを網に入れたとか.

 「この花はコマツナギです.むかし馬をつないだから」といった植物の観察では子どもは面白くない,野鳥を双眼鏡でとらえるのだってどこまでのめり込めるだろうか.五感を使っての自然体験というのは結構当たっていると思う.ネイチャーゲームはその辺から自然に気づく,というものらしい.中にはちょっと強引に自然と結びつけようとするものもあるが,落葉の布団に入ってみたり,夜の森の中で明かりを消して一人でじっと座らせているのはいい体験かも知れない.ホールアース自然学校の自然体験は,溶岩洞窟の中で明かりを消してみたり,野草をテンプラにしたり,ニワトリを殺して食べたり,野宿したりと,わくわくどきどきさせてくれるものが多い.ただし指導は簡単ではなさそうだ.

 昆虫関係者はというと,「環境の保全こそ大切だ,昆虫は採っても減るものではない」と主張は勇ましいが,実際に環境の保全をやってる人はどれだけいるだろうか.子どもたちに自然体験の指導をどれだけやっているだろうか.正直言って多くの昆虫関係者はその主張さえも昆虫協会にまかせっきりで,「自分(だけ)が採る」ことしか考えていないのではないかと思うときもある.

 ライトトラップや,アサギマダラのマーキングはひとつのいい方法だと思う.たしか昆虫協会がやってたと思うが,ペンションに泊まってライトトラップに集まる虫を見せたり,懐中電灯を点けて夜の雑木林にカブトムシを探しにゆく体験はよい方法だと思う.そういったプログラムをいろいろと考えてゆきたい.静昆の夏合宿のプログラムも,宴会を講習会にすればいいプログラムだと思う.

 昆虫観察会をやっていて困っているのが採った虫の始末だ.帰りに逃がしたり,家で飼って,死んだらお墓でも作る,というところではないだろうか.初心者に展翅板やドイツ箱を買うことを勧めるわけにもゆかないだろう.虫を採るのは自然との付き合いの入口,標本を作るのは科学への入口だと思う.発泡スチロールやプラスチックケースで,観察会の現場で配れるような簡単な展翅板と標本箱を作れないだろうか.

 科学への入口だと言ったが,入口をつくっても奥に続かないのも今の問題だと思う.かつての夏休みの宿題,標本展示会,生物部昆虫斑,採集記録の発表の場としての部誌,そして指導者.そういった場を学校の中に,総合学習の時間にでも再生できないものだろうか.それとももう学校には期待できないのだろうか.だったら,同好会の出番だと思う.

 ちゃっきりむし No.132 (200年6月10日)

  はるかなるツマキチョウの呼び声 鈴木英文

 昔フランス生まれのドイツ人の蝶屋がいた.いた,と書いたのは残念ながらもうとうに亡くなっているからだ.名前をワルター・ギーゼキング(仮名)としておこう.本業はピアノひき,世界の一流ピアニストと言われていた.20世紀最大のピアニストの一人との評価もある.ラヴェルやドビッシーのフランス印象派作品を得意としていた.北條篤史氏に言わせると彼のドビッシーは秀逸だそうだ.六尺有余の大男の大きな手から奏でられるピアニシモは神業に近い.
 彼の父は医者で,昆虫学者としても知られた人だったという.南仏リヴィエラで育った彼は,父の影響からか,蝶にも興味を持ったようだ.

 ある時彼は東洋には前翅が尖った Anthocaris がいることを知った.なんとかこの手で採集したい.中国に行くのは難しいが,日本ならチャンスがありそうだった.

 1951年,日本はサンフランシスコ平和条約で,独立を承認され,その後60年代の高度成長に向け,日本復興の実が現れてきた頃だった.また文化的にも西洋に追いつくことが目標とされた時期だった.

 ギーゼキングのもとに日本公演の話が持ち込まれたのはそんなときだった,時期は4月という,彼はすぐにその話に乗った.いや,実際は4月という時期は,彼がツマキチョウを採るために指定した可能性が高い.

 1953年3月に勇躍日本に乗り込んだ彼のトランクの中にはもちろんネットが入っていた.

 開口一番彼は言った,「 Anthocaris scolylmus (ツマキチョウ)はどこに行けば採れるのか?」  彼を呼んだ主催者側はめんくらった.「あ,アント・・何ですかそれは?」「チョ,蝶???」 さっそく文部省にお伺いがたてられた.電話に出た官僚氏も困った.しかしそこは官僚,責任を他に押しつけることには慣れている.適切な指示を与えた.「そんなことは大学か博物館の仕事だろう!」 そしてそのあとに彼の得意な言葉を付け加えた.「日本国の名誉にかけて・・・・・」

 電話を置いた科学博物館のK博士は天井を見上げてうなった,“日本国の名誉に掛けてツマキチョウを必ず採らせろだと!”それから頭を抱えた,“わしの専門はタマムシだぞ!”そのときトレ−ドマークの額の青筋があったかどうかは,想像するしかない.

 浦和の田島茂氏宅の電話が鳴った.K博士からだ.氏は知る人ぞ知るクラシック音楽大好き人間だった.後に彼はツマキチョウとクモマツマキチョウの種間雑種を野外で採集し,ユキワリツマキと名付けたのは,なにか因縁を感じる.

 さっそく友人の柴谷肇一氏とともに必ずツマキチョウが採れる場所の選定にかかった.そして二人の意見が一致した場所は東京西郊にある五日市市はずれの二箇所だった.

 4月のある晴れた一日,世界の著名なピアニストが,当時これぞ日本というようなのどかな山村で,無心に白いネットを振る姿を想像するとほほえましい.彼は十分満足したのだろう.文部省の官僚氏の言う日本国の名誉も,リサイタル主催者の面子も守られた.

 後日田島氏のところには,ギーゼキングのリサイタルのチケットが送られたという.

 かつては,音楽は虫屋の必修科目といわれ,音楽の素養が無ければ虫屋とは認めてもらえず,音楽と言えば当然クラシック音楽だった古き良き時代のお話である.

 (この話は,フィクションであることをお断りしておく.1%の事実に,99%の想像力を肉付けしたお話である.当然出てくる名前,地名はすべて仮名であることを付け加えておく.)

 ちゃっきりむし No.133 (2002年9月日)

  LSJ青森大会参加にあたって 木暮 翠

 日本鱗翅学会(LSJ)の本年の大会が青森市で開催される.大会の成功を希って筆者は4月15日付で出席申し込みをした.

 こゝで「青森へ行くならば」ということで筆者の行き方をご披露させて戴こうと思う.“やどりが”誌No.193のp.3には,県内13の地域・地点が「寄り道案内」的に列記されており,三厩村竜飛崎や三内丸山遺跡へ行ってみた経験からして,可能ならば大会の前日か翌日にでも行かれるようにおすゝめしたいと思う.ただし,竜飛崎のほうは交通・宿泊の件が少し不便かもしれない.

 以下書こうとするのは別のことで,いわぱ「ブラキストン線巡検」案の紹介である.

第1日(11月1日・金)
 羽田空港8:35--青森空港9:45着10:00発(バス)--青森駅前10:40着.タクシーに乗り換え--東日本フェリーターミナル11:00頃着.12:30発(東日本フェリー)--函館(フェリーターミナル)16:00着. 市内泊.

第2日(11月2日・土)
 JR函館駅8:04発(津軽海峡線・快速“海峡2号”)--青森駅10:43着.以下大会に参加.(注:文末)

 コースとしては要するに青森から函館まで行って戻ってくるだけのことだが,片道はフェリーで海面上を,片道は青函トンネルで海底下を,というのがミソ(!)なのである.フェリーの常設コースとしては下北半島の大間・函館間,また夏の間なら津軽半島三厩・福島町(北海道松前郡)間もある.

 まず,フェリーに乗る意義は,津軽海峡を流れる海流を目近に見ることにある.この海流は本州の日本海沿いに北上する対馬海流(暖流)の一分枝で,常に海峡を東流するといわれる.理由は日本海のほうが太平洋よりも水位が高いためで,小さな漁船だと東から西へ向かって行くのがかなりキツいと言われるくらいの流速らしい.しかし過去の時代には太平洋の親潮(寒流)が津軽海峡を通って日本海側へ流入していたことがあったようで,海釜とか溝状凹地等の海底地形,あるいは海底のボーリングのデータなどで知られているという.当然,これらのことはフェリーからの海水面を眺めたところでわかる訳ではないが,その方面の勉強をすることによって古環境を理解し,それと昆虫の分布の関係を考察してゆくという方向に話をつなげられるのではないかと思うのだ.このような抽象的なことのための“体験”のすすめだが,海流を横切ってゆくと途中で「潮の目」のような不思議な場面を見ることもできる.それは海水面が1本の線で仕切られて一方の側では波が立っているのに反対側は全くの平坦面を呈するということがあるのだ.そのほか様ざまな漂流物,自由に往来する外国船(津軽海峡は日本の領海ではなく公海なのだそうな.)も見られる.

 つぎに快速列車・海峡号は,「海面下240mの体験」のために乗るのだ.客車の客室入口に電光表示板のパネルがあって,これは上半分が地形断面図,下半分が文字表示の部分となっている.地形断面図の地下部はトンネルコースを示す線があって,列車が今どのあたりを走っているのかがわかるように赤いサインランプが光る.そして文字表示の部分は「入口から30km」,「海面下240m」という表示が上段の赤いサインと一緒になっている.海面下240mというのは,福島町吉岡と竜飛を結ぶ海底の1番深いところが140mなので,その海底の地下100mということである.そして140mの数値こそ,最終氷期に海退がこゝまで達したかどうかの論争点であり,M教授が公的な科学書で「誰だか気違いのいうように……」と記してまで80m海退説を唱える論敵O氏を批判する原因の数値である.

 論争のことは措くとして,本州と北海道の生物の分布にとって無関係ではあり得ない津軽海峡の下を,電光表示板の数字を見ながら通過するのは若干ながらの感興を憶えるという次第.

 尚,JR北海道に尋ねてみたところ,電光表示板のある客車を連結しているのは,上り(函館→青森)は海峡2・4・8・10号,下りは5・7・11・13号の由であった.

 また,“やどりが”誌での案内に「青森県立郷土館」が加えられていなかったが,青森県虫界の先達・下山健作氏の遺された資料などが収蔵されているのではなかろうか.(筆者は故林慶氏の遺された三角紙包みの標本の一一部を保存しているが,そのなかに下山氏が林氏に提供されたものがある.)この下山氏からの資料とともに,県内各地で行なわれだ自然調査”の成果の展示等があるのならば,この郷土館の参観も有意義なことであると思う.

  (注:日程中の時刻等データは6月30日現在の調べによる.)

 ちゃっきりむし No.134 (2002年12月1日)

  静岡昆虫同好会の50年 高橋真弓

 静岡昆虫同好会は1953年に創立してから今年で50年目を迎えます.ちょうど半世紀続いたことになります.まずこのことを会員の皆様とともに喜びたいと思います.

 創立の当時を振り返ってみますと,その年は私が静岡大学文理学部に入学した19才のときで,日本の社会は戦後の復興が進み,数年後におとずれる高度経済成長を準備する時期でありました.

 創立当時の会員名簿を見ると,会員数は17名,その内訳は社会人1,大学生5,高校生9,中学生2名で,会員の中で高校生がもっとも大きな部分を占めていました.

 戦争が終わって,1940年代の末期から1950年代の前半にかけては,高校の生物部の活動がもっとも活気に溢れていた時代でした.高校の生物部の中で昆虫班の果たした役割も大きく,数多くのすぐれた昆虫少年を輩出しました.

 クラブ活動(=部活)の長所は,その活動を自然科学を学ぶこととして位置づけられているために,昆虫趣味が悪い意味でのマニアックな方向に外れるのが防がれていたことです.

 一方,クラブ活動の問題点は,所属する学校の“名誉”を意識するあまり閉鎖的となり,その目的がどうしても研究発表会での入賞ということになってしまいがちなことです.

 私が数名の仲間とともに静岡昆虫同好会を結成するときに考えたことは,各校生物部昆虫班の交流と,昆虫趣味をつうじての,小中学校や社会人を含めての各階層どうしの交流でした.こうしてクラブ活動のもつ長所が生かされ,短所がなくなるものと考えたのでした.“駿河の昆虫”の初期の号にはこのような創立当時の“精神”がよく反映されていると思います.

 あれから50年を経過した今日,日本の社会は大きく変わりました.若い人たちの考え方も創立当時と同じではありません.高校生物部も衰亡し,その活動もすっかり変わりました.会員の平均年令は上がり,高校生はおろか,大学生さえもごく少ない状態となりました.このような状況は私たちの静岡昆虫同好会だけでなく,全国各地の昆虫同好会に広がっています.

 一方,近年自治体などが主催する“自然観察会”がたびたび開かれるようになりました.私たちはできる限りこのような会に参加し,昆虫以外の分野の人びととも積極的に交流し,もっと視野を広げることが必要となってきました.このような会に参加する子どもたちは,将来私たちの会に入会して活動する人たちの候補者となるのではないでしょうか.

 会創立以来,静岡昆虫同好会員の集めた昆虫標本の数は莫大なものとなりました.標本を自宅に保存する会員が生きているうちはまだよいが,その会員が亡くなったらその標本はどうなるのか.また会員がたとえ生きていたとしても火災や水害などのときにはどうするのか.その心配をなくするためには,一日も早く,静岡県に立派な自然史博物館をつくらねばなりません.私たちもその建設を促進する運動に参加しています.地域の自然研究のセンター,標本・資料の保管,普及・教育の機能をもつ自然史博物館の建設を熱望します.

 会誌“駿河の昆虫”は200号となり,その通しページは6000ページに近づいています.会誌の内容は,静岡県とその周辺地域の昆虫類の分布・生態についての資料としてもっとも信頼できるものとしての評価を得ています.会創立50周年を記念する蝶類分布に関する出版物も,まさにそれにふさわしいものとなるにちがいありません.

 会員の皆様,ここまで会を盛り上げてくださったこと,ほんとうにありがとうございました.今後とも会の発展のためにお力添えをいただけますよう,よろしくお願いいたします.