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<Webちゃっきりむし 2005年 No.143〜146>

● 目 次
 高橋真弓:日本産ミヤマシジミをめぐる諸問題(2) (No.143-1)
 永井 彰:オオバコの葉によるタテハモドキの飼育 (No.143-2)
 高橋真弓:日本産ミヤマシジミをめぐる諸問題(3) (No.144-1)
 富田哲弥:南アルプスの山火事とベニヒカケの生息地 (No.144-2)
 清 邦彦:今,何をしたらいいのか  (No.145)
 海外調査報告(別冊)を発行 (No.146)

 ちゃっきりむし No.143-1 (2005年2月28日)

  日本産ミヤマシジミをめぐる諸問題(2) 高橋真弓

 まず食性に注目する.
 極東ロシアにおいて,私が実際にミヤマシジミを採集し,生息地を観察したところは,ハバーロフスク市のアムール河堤防やヴラジヴァストーク(ウラジオストック)市郊外の鉄道沿線の土手などの草地です.

 これらの生息地にきまって見られる植物はマメ科のノハラクサフジ Vicia amurensis でした.この植物は繁殖力の旺盛なつる草で,ほかの草本や小低木などを覆いかくすように成長し,夏のころ穂のように集まった青紫色の花を咲かせます.

 極東ロシアの草地には,時々近縁のツルフジバカマV. amoena の群落も見られます.このようなところにはこれを食草とするヒメシロチョウは生息していますが,ミヤマシジミを見ることができません.

 韓国では,日本と違ってミヤマシジミは"準普通種"であり,たとえば半島中部の雪岳山や五台山などの周辺の低地や,"冬のソナタ"で有名な春川市の川岸や畑の周囲,道路ぎわなどの草地でよく見かけます.それらの生息地には,やはり例外なくノハラクサフジの群落があり,この植物を食べている終齢幼虫も見つかりました(未発表).

 なお,東シベリアの極寒地ヤクーツクでは,Tuzovら(2000)によって"種" maracandicus とされたミヤマシジミが,桃色の穂状の花をつけ,たくさんの細い小葉をつけた Onobrychis sibirica と呼ばれる植物のあるところに見られ,混生するタイリクミヤマシジミ Lycaeides idas verchojanicus Vicia 属のツルフジバカマと結びついているのと対照的でした (木暮・高橋1997).

 それでは日本ではどうでしょうか.

 日本産ミヤマシジミは"かたくな"なまでにマメ科のコマツナギに依存しています.長野県南アルプスの三峰川上流の海抜1500m地点でイワオウギ Hedysarum vicioides の群落から幼虫と蛹が確認されたという報告がありますが(信州昆虫学会,1976),この記録は現地調査による再確認が必要です. コマツナギ Indigofera pseudo-tinctoria はマメ科の小低木で,樹木はもちろん,すこし大きな草本(つる草を含む)があると,それらの中に埋もれて枯れてしまいます.その点が朝鮮半島や極東ロシアでの食草ノハラクサフジとの大きなちがいといえます.

 コマツナギという植物は,日本列島では本州〜九州に分布し,もともと南方に起源を持つ植物です.コマツナギ属 Indigofera は熱帯から亜熱帯にかけて約700種を含み(佐竹ら,1989),日本列島はこの属の北限近いところに位置することになります.

 私自身,韓国,ウスリー,アムール,バイカル湖,ヤクーツク,モンゴル,キルギス,コーカサス北部などを訪れたことがありますが,これらの地域のミヤマシジミ生息地ではコマツナギを1度も見たことがなく,ミヤマシジミはこれとは異なるマメ科植物を食草としているものとみられます.またロシアやヨーロッパの文献のミヤマシジミの項にはコマツナギはまったく登場しません.

 すなわち,ミヤマシジミがコマツナギを食べることは日本列島(本州)のみに見られるきわめて特異な現象とみることができます.

 このようなことから,日本産のミヤマシジミが大陸で食草となっている植物を食べて育つのか,また大陸のミヤマシジミが日本で食草(正確には食樹)となっているコマツナギを食べて完全に発育するかを調べる実験が必要となります.

(次号に続く)

訂正 前回「Tuzov et al.,2001」としましたが「Tuzov et al.,2000」と,また「ウスリースク」を「ウスリー」と訂正します.

 ちゃっきりむし No.143-2 (2005年2月28日)

  オオバコの葉によるタテハモドキの飼育 永井 彰

 2004年10月はじめに沖縄本島へ行き,台風21号が通過した直後に採集する機会があった.しかし,強風の吹き荒れたあとで チョウの姿はいつもより少なく,収穫も乏しかった.それでも何種かのチョウの♀が採集でき,シロオビアゲハ・オキナワカラスアゲハ・タテハモドキなどの♀のうち元気の良さそうなのを速達で茅ヶ崎の木村春夫氏のもとに送って採卵をお願いした.アゲハ類はすぐ産卵したと連絡があったが,タテハモドキはなかなか産卵せず,気をもませた後に10月末になってやっと産卵したと連絡があった.

 しかし食草が次の問題になる.図鑑によればタテハモドキの食草はイワダレソウ(くまつづら科),スズメノトウガラシ(ごまのはぐさ科),スズムシソウ(きつねのまご科)(いずれも管状花目)などが載っているが,どれも清水の手許には無いものばかりである.

 食草に困っていると伝えたらオオバコでも飼育できるはずですよとメールがきた.そういえば保育社の蝶類図鑑(川副昭人・若林守男著)のタテハモドキの項にはオオバコでも順調に成育すると書いてあったのを思い出した.しかし白水隆著の学研の図鑑「チョウ」にはオオバコはあまりよい食草ではないとも書いてある.

 そこでタテハモドキ Junonia almana が産んだ卵(一部幼虫になっていた)を清水に送ってもらい,オオバコPlantago asiatica (おおばこ科 おおばこ目)の葉で飼育にトライすることにした.

 実際にはじめてみると,産卵させたのはイワダレソウの葉で,初齢の幼虫はこの葉からなかなか離れてくれない.我が家の周辺を歩き回って柔らかそうなオオバコの葉を捜し,11月4日からこれだけを与えて飼育をはじめた.数日後イワダレソウから離れなかった幼虫も一部はオオバコに移り,摂食しはじめた.しかし枯れたイワダレソウに頑固にしがみつき オオバコに移らないものもいて10数卵からはじめたのにオオバコの葉を摂食して終齢に達したのは5匹に減ってしまった.

 11月20日に第一号の前蛹が枝にぶらさがり,11月24日までにすべて蛹になった.ただ3番目のものは前蛹から本蛹になるとき脱皮に失敗し,落下して死亡した.残りの4つの蛹は12月7日に1♂が無事羽化し,翌12月8日に1♀が羽化した.3日後の12月11日に3番目が羽化し♀だった.残りの1蛹は羽化しないまま越年した.

 ただ驚いたのは11月から12月へかけての飼育なので気温は沖縄の冬ぐらいで羽化してくるのは当然「秋型」になると思っていたが,羽化したのはいずれも裏面に丸い紋のある「夏型」ばかりだった.

 採卵してくれた茅ヶ崎の木村さんは戸外の植木鉢に植えた食草で飼育し,すべて秋型になったと聞いてまた驚いた.こちらは室内飼育なので蛍光灯が毎晩11時過ぎまで点灯している.多分 光周期からみると,短日処理にはならずほぼ一様な光周期になっているためらしい.気温は暖房なしの室温なので最低気温10℃以下の日もあるが,秋型の出現には温度よりも光周期の方が重要らしいということが判った.

 今回はあまり好成績とはいえないが,タテハモドキはオオバコの葉を食草としても十分に成育し,羽化にいたることを確かめることができた.

 ちゃっきりむし No.144-1 (2005年5月25日)

  日本産ミヤマシジミをめぐる諸問題(3) 高橋真弓

◎簡単な食性実験
これまでに述べたように,ミヤマシジミの幼虫が野外で食べている植物は,日本ではコマツナギ,朝鮮半島から極東ロシア沿海州にかけてはノハラクサフジとみることができます.

 そこで日本のミヤマシジミにノハラクサフジを与えたらどうなるでしょうか.

 これはまだ予備的な実験にすぎませんが,大井川中流・中川根町産のミヤマシジミの母蝶に卵を産ませ,孵化した幼虫にノハラクサフジの若葉と成葉を与えてみました.

 コマツナギの成葉を与えたものは,いつものように,反対側の表皮を残して葉肉を食べて白い食痕を残し,順調に発育しました.しかしノハラクサフジを与えたものは,すべてこの植物から遠ざかり,まったく食痕を残しませんでした.

 ノハラクサフジは富士北麓の草原にたくさん自生し,とくに梨ヶ原に多く,本栖湖畔や朝霧高原の"ふれあいの森"などにも見られます.

 今度は,1齢からコマツナギで飼育した同地産の終齢幼虫2頭にノハラクサフジの若葉と成葉を与えてみましたが,やはりまったく食いつかず,ノハラクサフジはとうてい食草とはなりえないという結果でした.

 ミヤマシジミは富士山麓でもコマツナギとしっかり結びつき,この植物のないところでは,どんなにノハラクサフジがあっても見ることができない事実とよく一致します.

 こんどは韓国でノハラクサフジから得られた終齢幼虫にコマツナギの葉を与えてみましたが,幼虫はまったく食いつかず,花を与えたらわずかに齧った,という結果を得ています.韓国産ミヤマシジミの幼虫は,どうやらコマツナギでは育ちそうもないようです.

 実際に韓国や沿海州各地でミヤマシジミの生息地を訪れてみるとコマツナギはまったく見ることができず,これらの地域のミヤマシジミはコマツナギとは無関係であることがよくわかります.

 このように,ごく簡単な食性実験からも,ミヤマシジミの食性は,日本産と朝鮮半島・沿海州産とで大きく異なり,この事実は両者の間の分化がかなり深いものであることを暗示しています.

◎DNAによる検討
 最近,ミトコンドリアDNAの塩基配列の変化に基づく種分化の問題が活発に論議されるようになりました.

 "遺伝子"を構成するデオキシリボ核酸(DNA)は,らせん状に連なる長いくさり状の構造を持つ物質で,4種類の塩基(アデニン,グアニン,シトシン,チミン)が延々とつながってできています.

 DNAはかなり安定した物質ですが,ときにはアデニンがチミンに,グアニンがシトシンに,というぐあいに変わること(突然変異)があります.

 これらの塩基は,タンパク質のもとになるアミノ酸をつくるための基礎となるので,一つの塩基が突然変異で変化すれば,それに関わるアミノ酸の種類が変わり,結果として別のタンパク質ができる,ということがおこります.タンパク質が変われば,それに関わる形質(特徴)が変わって新しい斑紋や色彩ができたりすることになります.

 このような突然変異のおこる確率は,時間に比例することになっているので,たくさんの塩基が変化していれば,比較しようとする二つの集団の分化した時代が古いということになります.

 このようなDNA分析は大学や研究所などの特別の設備のあるところでしかできないので,それら以外の職場で働く"アマチュア"には手が届かないのが残念です.

 さて,問題は,このようにして知ることができた塩基数のちがいは,そのまま種か亜種かを示していないことです.たとえば塩基数が四つちがえば種で,三つちがえば亜種である,ということにはなりません.

 したがって,このようなDNA分析の結果は,種か亜種かを決める非常に有力な根拠とはなりうるが"決定打"とはなりえないものです.

 今,私は日本産を含めアジア各地のミヤマシジミの材料を専門の研究者に提供して,そのDNA分析をお願いしているところです.

◎ふたたび"種"とは何か
 これまで述べてきたとおり,"種"というものを正しく理解することは非常に難しいということがおわかりになったと思います.

 "種"とは客観的に自然界に存在する生物界の基本的な集団で,一つの種は他の種とは質的に異なり,生殖的に隔離されたもの(たとえ雑種ができても永く続かない)であると私は考えています.個体変異が重なって亜種になるのは量的変化,亜種が種となるのは質的変化であると思います.

 ミヤマシジミの研究は,"種"とは何かを知るための,まことに良いテーマではないでしょうか.

 最後に,日本のミヤマシジミは大陸のものとは形態的・生態的に異なっている点が多く,日本固有種(特産種)の可能性が大きいと思います.もし日本固有種であることが立証されたら,その学名は Lycaeides aregrognomon ではなく,L. praeterinsularis となります.そのためには,さらに各分野からの証拠固めが必要となることでしょう.

 そのほかに中国産について調べることもこれからの課題です.

 ちゃっきりむし No.144-2 (2005年5月25日)

  南アルプスの山火事とベニヒカケの生息地 富田哲弥

 2004年は,実に充実した調査を行うことができた.ここでは,その中でもとくにクライマックスとなった,南アルプスにおけるベニヒカゲの生息地について述べてみたい.

 8月19日,天気は晴れ.静岡市を午前7時に出発し,10時15分に夜叉神峠のふもとにある駐車場に到着した.早速,一頭のキベリタテハが我々を迎えてくれた.本種も初めてお目にかかる憧れのチョウであり,その美しさに興奮した.

 午前10時25分,若干の雲が気になったが,支度を整えて夜叉神峠へ向けて出発した.山道は比較的なだらかな傾斜であり,昔の人が生活に利用していたことをうかがわせるものであった.そのような道は,概して登りやすい.また,山の中が大変明るいことにも驚いた.私の身近にある静岡市の山とは何もかもが違って見える.途中休憩を取りながら,鳳凰三山方向への山道を行く.高度が高くなるにつれて,モミジ類などの落葉広葉樹林からしだいにカラマツ林へと変わっていった.

 そして,14時30分,コメツガやカラマツなどで形成された極相林を抜けると,目の前に草原が広がった.およそ4時間かけて到達した標高2309mに位置する草原は,かつての山火事の跡地であり,現在はベニヒカゲの楽園となっていた.

 初めて体験する憧れのベニヒカゲがあちらこちらに飛んでいる.この光景のすばらしさに感激せずにはいられなかった.ベニヒカゲの朱色の模様は,予想以上に派手さは感じられず,とても落ち着いた色合いに見えた.氷河期から標高の高い山地に閉じこめられてきた本種の歴史を感じながら,しばらくベニヒカゲの様子を観察していた.ざっと50頭はいるだろうか.新鮮個体もいれば,ぼろ個体も確認された.彼らは決して俊敏ではなく,あちらこちらでひらひらとやっている.地面にも頻繁に降りてくるのだが,極めて写真が撮りづらく,シャッターチャンスは意外にも一瞬である.また,吸蜜・吸水している時は,羽を閉じていた.太陽が高く昇る前であれば,素晴らしい写真を撮るチャンスが増えただろう.

 短い時間であったが,高山に残された楽園を満喫することができた.数人の登山者が我々の横を通過していったが,我々の行動に興味を持った人はいなかったようだ.

 今回の調査は,山火事がもたらした極相林の攪拌について考えさせられた.山火事という環境の攪拌がなければ本種は衰退するだろう.山火事は,自然の中のシステムとして必要なインパクトであるという認識を持った.これは,河川の氾濫が河川の生態系を維持する上で必要なインパクトであることと類似している.また,ベニヒカゲは温暖な気候に適応する能力・時間がなかったのであろう.南アルプスの生い立ちと気候の変化によって高地に閉じ込められてしまったかのような本種の歴史を興味深く感じながら楽園を後にした.

 最後に,大変素晴らしい調査を計画し現地において指導していただいた高橋真弓氏,ならびに斎藤信行氏に深く感謝するしだいである.

 ちゃっきりむし No.145 (2005年9月19日)

  今,何をしたらいいのか 清 邦彦

 何も私に限ったことではないだろう.子どもの頃にチョウを追いかけ始めたのは特別に何かがあったわけではない.森があればセミを探り,小川があれば魚を釣るというように,子どもにとって自然な本能的な遊びだったと思う.それがどうして大人になるまで続いたのか.どうして昆虫少年から多くの科学者や自然愛好家が育っていったのか.

 かつては模型工作や昆虫採集をすることも,例えば夏休みの宿題など,理科の勉強であるとして,学校教育の中に組み込まれていた.やがて思春期ともなると親や先生に褒められるよりも仲間同士の関係の方が重要になってくる.宿題としての昆虫採集からクラブ活動としての昆虫採集になる.クラブ活動であるからやはり学校の理科教育の中にあって,採集記録を部誌に発表しこり標本を文化祭で展示することも科学の研究として認められていた.事実日本の昆虫研究においてひところは高校の生物部の果たした役割は大きかったと思う.今,ある地域の昆虫リストを作って標本を並べたとして,評価されるだろうか.その前に顧問が許すだろうか.それなら生物部なんかに入らない方が自由に昆虫採集できる.でも,科学から離れていってしまうかもしれない.

 別の見方をするならば,一般には,食べるため以外に生き物を殺すという行為は不必要な殺生とされているし,花や小鳥同様,眺めて楽しんでいるものを採集するのは独り占めするようなものだろう.でも,子どもの成長や科学の研究などなら社会的に許される面かおる.私か生物部に入ったり,生物の勉強を一生懸命やったのは,はじめは昆虫採集をするための口実作りもあったかもしれない.そうしているうちに生紗学や調査研究することが面白くなってしまい,今は場合によっては,見る,写す,数えるだけでも楽しい.

 今,昆虫採集が社会から浮きつつあるのは感じていることと思う.子どもの虫取りも,よいこのすることではないと考える人が増えてきた.いつのまにか昆虫採集に対するよくないイメージができあがってきてしまった.大人ともなるとネットを持っているだけで,何を何のために採っているのかにかかわらず,「おいコラ」と言われかねない.

 いくら釣りと同じで採っても減らないと言っても,やはり食べるため以外に殺生するのだから,なにか理解してもらえる理由を説明する必要はあると思う.少しでも「採ったら減る,かも知れない」と多くの人が考えている場合には,自分はそう思っていなくてもがまんする必要もでてくると思う.言いたいことはあるかもしれないけど,少数派だという現実もある.

 私はできるだけいろいろな自然関係の人だちと一緒に活動しようと思っている.昆虫採集をする必要のあることも少しはわかってもらえると思うし,こちらも他の人たちの感覚,理屈ではなく感覚がだんだんわかってくる.なんとなく歩み寄れるラインが見えてくる.

 「私は」と偉そうに言ったが,このようなことは地方の昆虫関係者なら多かれ少なかれやっていることだ.狭い地域では,教育,観察会,展示会,環境保全活動などで顔を合わせざるを得ない.打算的な表現をするならば一緒にいないと「昆虫抜き」でことが進んでしまうからだ.観察会で子どもが捕虫網を持っていただけでしかられてはいけない.「セミを採るくらいいいじやないですか」くらいは言いたい.環境保全だって昆虫の生息環境のことを考えずに進められてはかなわない.地方ではそれなりにやっている.今言いたいことは「中央は何してる」である.

 ちゃっきりむし No.146 (2005年12月2日)

  海外調査報告(別冊)を発行

 今年2005年も静岡昆虫同好会では,多くの会員が,主としてロシアなどの海外に調査に出かけました.かつては東南アジアなどの熱帯の各地域へ行くことが多かったのですが,このところユーラシア大陸にこだわる傾向となっています.

 1979年,木暮翠隊長率いる第1次調査隊が当時ソ連のコーカサスへ出かけたのがことの始まりでした.それはErebia(ベニヒカゲ)属をはじめとする草原性の蝶類に対する関心が高くなり,それは日本の草原性蝶類のルーツともいえる大陸を見なければ何も語れないという気持ちを多くの会員が持っていたからです.その後3年に1度ほどのペースでキルギス,ヤクーツク,モンゴルなど広範囲に調査が継続され,本年は18次になりました.しかし最近は辺境の地域にも入りやすくなるなど旅行にとってさまざまな状況が良くなったことをはじめ,会員おのおのの調査の対象・関心が多様化するとともに専門化・細分化されてきたこと,あるいは小グループでも気軽に行けるようになったことなどにより,おのおのの調査目的にあった地域と時期に調査が行われるようになりました.これに伴って調査の成果が飛躍的に蓄積されてきました.今後も多くのグループが海外に出かけることは確実で,益々新しい知見や資料が集積されることと思います.

 しかし一方,多くの調査が行われてもそれに見合った発表の機会は必ずしも十分であるとは言えません.いわゆる全国誌や学会誌に発表するにはやや抵抗のある場合も考えられます.

 そのため本会では,@貴重な調査の成果を無駄にしないこと,A発表に際しては正確な同定が要求され,そのための研鑽は会員の資質向上につながること,B自分たち自身で発行することは会の活動の充実と,PRにもなることから次のような内容により,気軽に発表できる"海外調査報告(別冊)"を発行することとなりました.過去の調査で未発表の資料をお持ちの方,また今後調査に行かれる方も,是非会員の皆様の投稿をお願いいたします.

1. 出版物の概要
 @ 海外の昆虫に関する調査報告及び論説
 A B5版,カラー図版入り,30ページ程度
 B 年1回程度,別冊として発行
 C 出版物の名称は「ゴシュケビッチ」
 D 1部 1500円ぐらいを予定
 E 印刷製本費の20%を執筆者が負担

2. 投稿規程
 @ 海外(国名は問わない)の昆虫に関する調査報告及び論説
 A 1論文,出版物で15ページ限度を目安とする
 B 著者名・住所及び表題は英文を併記し,また英文のキーワードと抄録をつける
 C 1論文の著者のうち,一人は会員とする
 D 原稿にはなるべくフロッピーなどを添付する
 E 投稿内容については国内及び関係国の法律等に抵触しないものであること
 F 図はそのまま製版できるように鮮明に描き,縮尺を明示する
 G 別刷は全額執筆者負担とする
 H そのほかの基本的事項は会誌の規定と同様とする
 I 原稿の送り先は同好会事務局(諏訪)とする

 なお,出版物の名称を「ゴシュケビッチ」としたことについて参考までに記すこととします.これは「蝶と蛾」1977 Vol.28, 4 高橋 昭氏の「日本産キマダラヒカゲ属Neope 2種の学名と原産地」の文を参考にさせていただきました.

 1854年(安政1年)3月,アメリカの使節ペリーと日米和親条約が調印され,下田港が開港された.同年ロシアの海軍大将プチャーチンが貿易交渉のため日本を訪れ12月4日には下田港に到着した.この使節団にゴシュケビッチ(1814−1875)が通訳として参加していた.ところが,彼らは下田に滞在中の1854年12月末,2回続けて起こったマグニチュード8.4の地震(安政の大地震)に遭遇し,2回目の地震に伴う大津波で下田港に停泊していた"ディアナ号"が破壊された.その後1855年2月には日露和親条約が調印され下田港がロシアにも開港となっている.

 一行は帰国の手段が無くなり,伊豆に滞在を余儀なくされていたが,ゴシュケビッチは1855年7月ドイツの船で母国に帰国するまでの間の1855年春もしくは初夏,伊豆半島で蝶の採集をしている.採集された蝶はセント‐ペテルブルクにある王立科学アカデミー博物館に寄贈され,エドゥアルト・メネトゥリエによりリストが作られ,そのうち6種が新種として記載された.その6種はダイミョウセセリ,スジグロシロチョウ,ツバメシジミ,ウラギンスジヒョウモン,イチモンジチョウ,サトキマダラヒカゲである.特にサトキマダラヒカゲの種小名には"goschkevitschii"がつけられている.また上の6種の内の3種は命名者のメネトゥリエの名が残っている.

 ゴシュケビッチは1858年から1865年まで函館で最初のロシアの領事として勤務する一方,和露辞典の著者としてまた日本の写真を紹介するなど日本とロシアの友好的な架け橋として活躍している.

 以上のようなことから,ロシアは現在会員にとって昆虫の調査をする上で最もの関心の高い国であること,サトキマダラヒカゲの種名" goschkevitschii "は,この種の属する Neope 属の分類に高橋真弓会長の業績にも関連していること,ゴシュケビッチ本人が本県の伊豆に滞在し蝶を採集したことなど,静岡県−地震−蝶−ロシアという多くを結びつけるものがあるということで「ゴシュケビッチ」に決定した次第です.
                                     (文責 諏訪哲夫)