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<Webちゃっきりむし 2008年 No.155〜158>

● 目 次
 高橋真弓:静岡昆虫同好会創立55周年に当たって(No.155-1)
 静岡県はルリシジミ大国になるか(No.155-2)
 原 聖樹 :田島 茂さんを偲んで (No.156)
 平野裕一:極北シベリアに蝶を求めて(No.157)
 清 邦彦:シベリア20年(No.158)

 ちゃっきりむし No.155-1 (2008年3月29日)

  静岡昆虫同好会創立55周年に当たって 高橋真弓

静岡昆虫同好会の創立55周年,まことにおめでとうございます.

この会は今から55年前の1953年,静岡県内に住む若い昆虫愛好者によって創立されました.
その頃の会員の中心は10代と20代の人たちで,私は19才でありました.
会の最大の目的は,静岡県内に棲む昆虫類の分布と生態を明らかにすることであり,これについてのぼう大な資料を生みだしていくことでした.
これらをしっかりと記録していくための会誌としての「駿河の昆虫」が創刊されました.

1950年代前半の日本の昆虫界では,とくに蝶類の生活史解明の競争が華やかにくり広げられ,日本中皆われもわれもとそれに参加し,その成果に沸き立っていたものでした.
私たち静岡昆虫同好会では,それをかたくなに無視したわけではありませんが,それはそれとして,会独自の方針のもとに,その目的に向かって着実な歩みを開始したのでした.
会の生命ともいえる「駿河の昆虫」は何が何でも年4回の発行を確保する.
そして全巻通しページとする.
そしてあれから50年,その成果は2003年に発行された大著「静岡県の蝶類分布目録」(全1368ページ)に集大成されました.
これは静岡昆虫同好会がのこした全国に誇るべき大事業であると自負しています.

かつて,日本産蝶類の分類学の分野で立派な業績を持たれる猪又敏男さんが,私に対して「静昆は日本の中でもっともドイツ的な会である」と評されたことがありました. 私たちは"ドイツ人"ではありませんが,猪又さんは,静岡昆虫同好会の歩みを,ドイツ人のもつ原則性にたとえられたのではないでしょうか.

今,私たちは創立当時とはちがった新しい時代に生きています.
私たちが必要とする「昆虫採集」に対しても,改めてその正しい位置づけが問われています.
これからの私たちは狭い昆虫趣味の世界だけに埋没せず,昆虫以外の自然関係団体(植物,野鳥,地質・古生物,自然保護など)とも関わりあい,たがいに長所を学びあいながら,創立以来の伝統に磨きをかけていきたいものだと思います.

会員の皆様,会員外の会を支えて下さった皆様,まことにありがとうございました.今後ともよろしくお願いいたします.    (2007年11月24日)

  ※ 創立55周年記念祝賀会での名誉会長挨拶を文章化したものです.

 ちゃっきりむし No.155-2 (2008年12月21日)

  静岡県はルリシジミ大国になるか

 2月の総会後の談話会ではヤクシマルリシジミ,スギタニルリシジミ,サツマシジミの3種のルリシジミ類の話題が取り上げられました.これに県下に広く分布するルリシジミを加えると静岡県のルリシジミ類は4種になります.温暖化の勢いしだいではタッパンルリシジミも記録されないとは限りません.残るはオガサワラシジミですが,伊豆諸島はもともと伊豆の国の所属で,その流れで小笠原諸島の領有権を主張して静岡県小笠原村にしてしまえば,ルリシジミ類全6種がそろい,静岡県はルリシジミ大国になります.

 ちゃっきりむし No.156(2008年5月31日)

  田島 茂さんを偲んで  原 聖樹

2007年7月11日,以前当会の会員として活躍された田島 茂さんが82歳で病死されました.謹んで哀悼の意を表し,ご冥福をお祈りいたします.

1967年,田島 茂さんは木暮 翠・北條篤史両氏と東京・御徒町駅前の喫茶店「タカオ」で時折,個人的に蝶談議を交わしておられた.1968−1969年には,この蝶談議に当時大学生として上京中だった清 邦彦・鈴木英文両氏が加わり,東京付近の静岡昆虫同好会員が相互交流と資料・情報交換や蝶研究の向上を目的として,「タカオ・ゼミナール」が誕生した.同時に,関東の蝶屋にも声をかけようということで,北條氏に呼ばれて私も参加し(1969年3月14日),ここで田島さんと初めて出会ったのである.

この年の4月ゼミでは西丹沢のギフチョウ調査会を行うことが決まり,A班は「山北−大野山等」,B班は「山北−畑沢−峠」として4月13日(日)に実施され,田島さんはB班に参加された(『駿河の昆虫』bU9,1970).田島さんはこの年(1969)に12回(全回),1970年に5回ほどゼミに出席されている.その後2-3回出席されたが,やがてゼミに姿を現わさなくなった.仕事が多忙になったのであろう.

1966-1969年,北條氏とともに田島さんは(単独行のケースあり),未調査地の多い南アルプス山麓の釜無川流域と秩父山地(関連地を含む.山梨県)において蝶の分布調査を精力的に実施され,数々の成果を上げられた.特に,オオイチモンジ(御座石鉱泉付近)・ヒョウモンモドキ(茅ヶ岳)・コヒオドシ(釜梨川源流)・ヒメギフ(木賊峠)・クモマツマキチョウ(甘利山=戦後初)などの発見は興味深い.これらの成果は次々と『駿河の昆虫』に発表されていったが(bT9-71,1967-1970),常に課題を問題提起しながらの綿密な調査と報告は分布調査の模範となっている.蝶にとっての生息環境も荒れていない時代であり,今日これらの地を再び訪れても姿を絶った種が少なくないと思われ,その点貴重な記録を残されたことになる.田島さんが野外調査に最も情熱を注がれた時期ではなかったかと思われる.

この間,1967年,田島さんが釜無川で見つけられたツマキチョウ幼虫を飼育したところ,「ツマキ♂×クモマツマキ♀」と思われる種間雑種1♂が羽化し,"ユキワリツマキチョウ"と称され注目を浴びた(『駿河の昆虫』bU3,1968;『昆虫と自然』Vol.6 bP,1971).

1968年に山梨県本栖湖岸の山頂部パノラマ台で狩野昭平氏によってギフ・ヒメギフが同時に採集され,両種の太平洋側における混棲地として蝶屋を驚かせた.しかし,両種の食草が見つからないことから,田島さんは清氏と協力してパノラマ台下の精進湖畔でフタバアオイを調べたところギフ2卵塊が発見され,同地のフタバを用いて飼育した結果,フタバがギフの食草として問題ないことを明らかにされた『駿河の昆虫』bU6,1969).田島さんは次のように語っておられる.「自然状態でフタバアオイを食しているギフチョウのグループがある事実が解明された時は異常な驚きと感銘を覚えた」(『昆虫と自然VOL.4 bS,1969).次に,ヒメギフがフタバアオイを食したデータがないので,釜無川流域産ヒメギフで試験したところ,食い付きが悪く摂食量が少なく,蛹も小さいなど想像以上の抵抗があり,自然状態でフタバがこの蝶の食草になることはまずないであろう,と述べておられる(『駿河の昆虫』bU6,1969;bU8,1970a;bU9,1970b).

1972年4月1日,田島さんと一緒に八王子市(多摩丘陵)においてカンアオイを探索し,タマノカンアオイとランヨウアオイの混生地を発見した.

1973年,"展翅の神様"と呼ばれていた田島さん宅で"20世紀昆虫界最大のイノベーション"ともいうべきノリ付け展翅法について教えを受けた.特に,トリバネアゲハ類は展翅後のテープ上に,さらに適当な大きさのポリフォームで被覆してピンで止めないと,羽根がピシッ!と仕上がらないことを,このとき初めて知った.当時使用されていたノリはマニキュア液であったが,乾きが速いので展翅中にもたつくと,蝶の体内で液が固まって(セルロイド化)羽根が動かし難くなるのが欠点であった.田島さんの展翅板上には,知人から展翅を依頼されたというシナフトオアゲハが複数仕上がっていたのを覚えている.このとき,私がボルネオで採ったアンフリサスキシタアゲハ1♀を展翅していただいたが,その標本は『昆虫と自然』vol.9bT,1975の表紙に掲載された.

私は,浦和市の田島さん宅には奥様が健在であられたときに3回,お亡くなりになられてから後に1回おじゃました記憶があり,そのとき亜種間雑種を含むクモマツマキ多数とオオルリシジミや韓国産オオムラサキ・チョウセンアカシジミなどの標本をいただいている.逆に,田島さんが私の標本を見に拙宅へ来られたこともあった.

私が相模原に住んでいた当時,もう十数年前にもなろうか,田島さんから「シナギフチョウを飼いたいのだが卵を持っていないか?」とお電話いただいたのが最後の連絡になってしまった.悲しい.

田島さんは埼玉昆虫談話会や相模蝶類同好会でも活躍されていた.本稿は北條会長の要請により,その中から静昆関係を抜粋して掲げたものである.田島さんの所有標本77箱(大型ドイツ箱)約4,900頭は埼玉県立自然の博物館に寄贈された.

 ちゃっきりむし No.157 (2008年9月30日)

  極北シベリアに蝶を求めて 平野裕一

今年(2008年)の6月中旬,ロシア北極圏に蝶を求めて旅行をした.過去20年以上にわたりモンゴル,シベリア地域の蝶を調べている過程でベニヒカゲ(Erebia),タカネヒカゲ(Oeneis)の仲間に関心を持つようになった.地の果て極北シベリア地域に蝶が生息するのか,生息するならどんな蝶なのか自分の目で確認したく実現の機会を待っていた.しかし希望する地域はすべて閉鎖都市でありその地域への立ち入りは一般人にとっては不可能な事であった. 1980年代後半のペレストロイカの進行でロシアの情勢が少しずつ変化し,今年になって予想外にも入域許可が下りた.今後の政治情勢,経済情勢によっては,今より更に入域が厳しくなる恐れがあることから,思い切って今年,念願の計画を実行に移した.

今回の調査の結果,生息している蝶は少ないながら15種ほど確認できた.主なものはベニヒカゲ,タカネヒカゲの仲間である.過去に調査したヤクーツク市近郊やマガダンの奥地に生息するものと共通種が多いが,なかには似て非なるものが有り今後の精査が必要と思う.また,北方系の蝶の発生量は年毎に周期的に激しく変動するとも言われる.その点の確認は単年だけの観察では意味が無く,現地に繰り返し長期間滞在し観察する必要がある.今後の調査に期待をしたいが,難しい問題でもある.蝶に関しての具体的な報告は別の機会として本文は旅行記として紹介する.

目的地はサハ共和国ウスチヤンスキー地方のデプタツキー.北緯70度,東経140度,標高400mの山岳ツンドラ地帯,永久凍土の地盤に埋土をした人口2千人の鉱業の町だ(参考:北緯70度,東経140度は東京の真北約4000kmにある,南半球に置き換えると南緯70度は昭和基地周辺).

日本を出発して3日目の6月24日の昼過ぎ,私と妻(聰子)の2人は雷鳴と冷たい雨の中,現地デプタツキーの飛行場になんとか辿り着いた,飛行場とは名ばかりで50年昔の静岡鉄道のバスターミナル程度.驚いたことに副市長とお供の職員の出迎えを受けた.用意された専用車で市役所まで連行?改めて入管審査が行われた. 事前に入域許可は得てはいたが,この町に外国人が訪れるのは初めてとのことで,しかも私達の入域目的が理解できないらしい.「なぜここまで蝶の研究に来たのか説明せよ!」.この質問はこれまでにヤクーツクやモンゴルなどでも幾度か受けたもので,なかなか理解をしてもらえなかった.今回も妻が英語と露語で説明し,なんとか理解してもらった.

ホッとしたところで今度は市役所側の講義が始まった.永久凍土の中からマンモスの冷凍個本が採掘される説明と愛知万博出品の標本などの話を2時間余り聞き,最後に全員で記念写真に納まって雑談になった.副市長曰く,「市のガイド(監視員)を同行させ蝶のいる場所に案内しましょう.でも明日は雪ですよ.今年の春先には非常に強い気候変動があり,芽生えたシベリアカラマツの新芽が全部枯れて山全体が黄色になってしまいました.蚊は多いけれど花,鳥,昆虫は少ない,自然を大事にして下さい」.先行き色々な意味で不安になってしまう.

日本では日の出から日没までが昼間と言うが,北緯70度の地は終日太陽が頭の上にあり日の出と日没がない.晴れの期間ならば延々と何十時間も青空が続く.しかし,一旦北極海からの大きな雲が空を覆うと数日は曇りか,雨,雪が続く.気温は10度以下になり外出する気持ちにもならず,勿論蝶も飛ばない.

私共は簡素なホテルに滞在し,食事はホテルに隣接した別棟の食堂に通った.その道筋に交番が有り,24時間パトロール車が常駐し私共の警護(監視?)をしてくれたのは心強い限りだった.ホテルは温水が出なく水温5度の冷水シャワーだけ.顔を洗うのも辛く我慢,我慢だった.それでも近くの市営体育館のサウナを利用でき,快適に過ごせたのはありがたかった.

余談だが帰国後,インターネットの衛星写真で調べたらホテル,体育館,交番等を確認でき,その精密さに驚いた.

ある雨降りの日に地元でマンモスを採掘するグループの基地に案内してもらう機会があった.グループのボスは元KGBの幹部でモスクワ公認のマンモス・ハンター"マンモス・マフィア"を名乗っていた.初めての外人の訪問.しかも日本人夫婦が蝶を探しに来た,と大変な歓迎を受け当惑した.無造作に放置したマンモスの骨の山積みの中から,臼歯を取り出して我々2人に1個ずつプレゼントするとのこと.大変ありがたかったが税関のことを配慮し丁重に辞退した.さすがにマンモスの牙はくれそうもなかった.

さらに彼らの農場を案内され,温室内で栽培中の15cm程度に生長したキュウリを手にして自慢するマフィアのボスの笑顔が印象的だった.作物を育てるためには1年中暖房しなければならない極北の地にあって,生野菜は貴重な食べ物.食品をはじめすべての日常生活物資はヤクーツクからの空輸に頼っているという.マンモスの骨よりも一本のキュウリを大事に扱い,マンモス採掘用の戦車のようなキャタピラーや六輪駆動の大型貨物車よりもガラス張の手作り温室を大事にする生活.極地に生活する厳しさの一端を思い知る事ができた.

地球の温暖化が進む現在,多くの面から北方系の蝶(生物)の将来を心配する旅でもあった.(終)

 ちゃっきりむし No.158 (2008年12月15日)

  シベリア20年 清 邦彦

 前号に続いてシペリアの話で恐縮だが,静岡銀行ギャラリーでの「写真展シペリアの自然と暮らし」を機会に木暮昆虫調査隊随行記者として記しておきたくなった.

 入国ニエット!:私が参加したのは第3回目の1986年のバイカル湖からである.新潟空港には政府高官の娘なのか,甘えたような顔のマトリョーシカ体型のロシア娘がアイスクリームをぺろぺろなめていた.ロシア人と日本人は隔離され,アエロフロート機には日本人が乗り込んだあとカーテンが引かれ,その後にロシア人が乗ったと思う.ハバロフスクに着くと先にロシア人が降り,その後北朝鮮人だちと一緒に外国人専用の空港ターミナルまで歩いた.入国審査は北朝鮮人の車椅子の男性が最初で,日本人はあとに回された.やっと私の番になったところでパスポートを見た女性の入国審査官は突然「ニエット!(ノー)」と言って,後ろで持てというようなしぐさをした.審査官たちが相談したのち,やっと最後になって入国を許され、た.だいぶ持たせてしまったと思ったら,みんなもまだ荷物検査の所で捕虫網のことから,レッドデータブックのような本を開いて採集禁止の昆虫の説明を受けていた.

 帰国時,私はソビエト共産党機関紙プラウダを没収された.トンボ屋のF氏が最後に残された.提出した採集リストには蝶しか書かれていなかったためなのか,何かの薬品が問題だったのかは分からない.ハバロフスク空港からはハノイ行き,ピョンヤン行きも出ていて,売店に並べられた買い物袋,歯磨き,安そうな化粧品はそれらの国の人たちのおみやげのようだった.

メガネンコ事件:1989年のハバロフスク空港の入国審査官はニコッと笑って「こんにちは」と言ってきた.びっくりした.これがペレストロイカか.

 今回は郊外のヘフチール丘陵への調査が許された.さらに南のチルキー村辺りまで足を伸ばし蝶のいそうな所で車を止めた.森の中に一人で入ってゆくと梢の上をミドリシジミが飛び回っている.つなぎ竿で狙っていると黒ぶちめがねの兵隊がやってきて,ロシア語で何か言った.私にとって今は目の前の蝶を採ることの方が大事だと「バーボチカ,バーボチカ(ちょうちよ,ちょうちよ)」と言いながらジョウザンミドリシジミを一度に3頭もネットに入れた.するとメガネンコとあとで名づけてやったメガネの兵隊は,こっちに来いというしぐさで,来た道ではなく森の中に連れて行った.この奥に施設があってそこで取調べを受ける,と90%思ったが,警告を無視してチョウチョを採っていた罪で,このまま森の中で処分されるのではという不安も10%あった.道路に出る近道をしただけだったとわかってほっとした.ここは外国人立ち入り禁止だと,ガイドがひどく叱られていた.横の道路を戦車が通過していった時は,この年に起こった天安門事件を思い出し,改めてこういう国の恐さを感じた.

 ヤクーツクの空港ではトイレに便座が無かった.水は流れずトイレットペーパー代わりの古雑誌と使用済みの紙を入れるゴミ箱が置いてあった.空港のトイレでさえこの始末だから,ホテルの部屋以外のトイレはことごとく便座が無かった.前の年ここを訪れた作家の椎名誠がこれを題材に「ロシアにおけるニタリノフの便座について」という小説を書いたほど,シベリアには便座が無かった.計画経済の下では便座の生産量は便器の生産量と同じだったのではないだろうか.

 ハバロフスクに戻った夜はお祭りだった.薄暗い公園の中で大勢の若者たちがロックバンドの演奏に合わせて『ジンギスカン』を踊っていた.そのエネルギーは1991年の社会主義体制崩壊前夜を暗示しているようでもあった.

 飛行機はキャンセルです:自由経済になった.初めはまだ不慣れだった. 1997年,イルクーツクからのノボシビルスク行き飛行機は午後なので,それまでの時間バスで郊外に採集に出掛けた.バスが故障し代わりのバスに迎えに来てもらった.ホテルに戻ったところで,ガイドのアンドレイ君が言った.

 「コグレさん,コグレさんのヒコーキはキャンセルになっています」「キャンセルって?」「明日の席も取れるか,分かりません.今夜のホテルの部屋はありません.今日の午後はどこへ採集に行きましょう」
 「どこへ行きましょうどころじゃないよ,我々はアルタイにイキタイのだ」「鉄道ならあります.1日半で行けます」
 「行って帰ってくるだけじゃないか」
 「それからバスが故障したのは郊外に行ったからです.修理代を払ってください」
 「郊外と言っても路線バスも走ってる所じゃないか.ロシアの車はあの程度の道で壊れるのか」
 「あれは韓国製です」

 インフレも激しく,アイスクリームが1500ルーブル,ビールが11000ルーブルだった.

 それからのロシア:ロシアは自由な国になった.新潟からの飛行機はアエロフロートからダリアビア航空になった.ハバロフスクからの行く先もピョンヤン,ハノイではなくソウル,シンガポール,サンフランシスコなどになった.ロシア人乗客も日本から家電製品を持ち帰る若い男たち,出稼ぎの若い女性たちが目立つようになった.一流ホテルのロビーにいかがわしい女性たちがたむろしていた時もあった.ひところは街を行く車の3分の2が日本の中古車だった.「大平納豆」の車が走り,「マリア幼稚園」と書かれた小型バスに大人たちが乗っていて,パンを運んできた車には「神戸肉」と書かれてあった.

 2004年,沿海州のアルセエフのホテルのレストランで昼食をとった.こんな地方都市にまで上手な日本語を話すウエイトレスがいて驚いた.
 「名前はなんて言うんですか?」
 「エレーナです」
 「エレーナさんは日本語をどこで勉強したのですか?」
 "ハバロフクス大学の日本語学科です"と言うような答を想定していた.
 「フクイケンです.アワラオンセン」