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<Webちゃっきりむし 2009年 No.159-162>

● 目 次
 浜 栄一:虫屋のスケッチ志向(No.159)
 平井克男:静岡県中部地域におけるコウヤホソハナカミキリの分布拡大について(No.160)
 原 聖樹:“静岡県産蝶類研究のパイオニア” 神村直三郎の業績(No.161)
 間野隆裕:日本鱗翅学会第56回全国大会よもやま話(No.162-1)
 清 邦彦:アサギマダラの移動の調査のマナー(No.162-2)

ちゃっきりむし No.159 (2009年3月31日)

 虫屋のスケッチ志向 浜 栄一

静岡昆虫同好会会員の皆さんのご活躍については,日頃から深い敬意を表しております.今回,本誌を編集されている清邦彦さんから原稿の依頼があったとき,できれば静岡県内で観察したチョウの生態のことを書こうとしたのですが,思い返してはたと気づきました.長野県から他県へほとんど出たことのない私は,静岡県内で印象に残るような採集をした覚えがまったくないのです.ですから今回はいつも少し気になっている虫屋のスケッチ力,つまりドローイング(単色線画)や点描画のことを書くことにします.

皆さんは「寳塚昆蟲館報」という昆虫雑誌をご存じでしょうか.昭和23年10月から24年4月にかけて発行された同誌に4回にわたって発表された磐瀬太郎さんの「日本産蝶類生活史覺え書」は,生活史未知の種の探索に挑戦していた私たち若い同好者に,強い刺激となりました.とくに,私はそのところどころに挿入された卵や幼虫の図に釘付けになってしまいました.太い線による荒いタッチの図は決してお上手とは言えませんでしたが,それはものの見事に卵や幼虫の本質を表していたのです.

そのころから私は採集・観察ノートを付けていましたが,食草やチョウの幼虫をどのように図で表現したらよいか迷っていましたので,磐瀬さんのこのスケッチは非常に大きな助けになりました.ちょうどそのころ,私は若い学生の皆さんと諏訪蝶類同好会を起し,その機関誌の編集とガリ切り(謄写印刷するため,ガリ版の上に原紙を置き鉄筆で文字を刻む作業)を受け持ちました.しかし,やすり板の上の?引き原紙に,先端が球状になった鉄筆で絵を描くことは想像以上にむずかしく,中でも体が丸い幼虫は鉄筆が滑ってよく失敗します.しかし大きな失敗は許されません.当時,会員が投稿してくる原稿の中にはわが国で初めてその生活史が解明された種も多かったのです.

榊原茂さん(個人)から送られてきた「ウラミスジシジミの幼虫及び蛹」という原稿も正にそれで,この種の幼虫は日本ではまだ発表されていませんでした.私は震えるような興奮で幼虫の形態のガリ切りに当たりました.印刷したものを見て驚きました.幼虫体の緑色部分及び蛹の濃黒色部分を自分ではガリガリと塗り潰したつもりだったのに,印刷で出てきたのは黒い点状になっているではありませんか.印刷技術としては明らかに失敗なのに,私は不思議なことにその出来具合に魅せられてしまいました.本物の幼虫の感じがよく出ていたからです.これが,私が点描画にのめりこんだ切っ掛けになりました.

私の点描画というのは,違った色を並べて置くことによって視覚混合を生じさせる印象派の点描画とは無関係のもので,文字通り線をほとんど使わずに小さな点だけで描く画法のことです.最初のころは,万年筆の先を削って小さな点を打っていました.最近ではボールペンの改良が進み,ペン先が0.18mmのものまで市販されていますので私は専らこれと0.25mmのものを使うようになりました.点描画は小黒点の単色で構成されていますが,点の大小・強弱・間隔などの打ち方次第で絵に奥行が生じ,立体感も出ます.昆虫の生態描写や環境のスケッチに,もっと利用されてよいのではないかと私は思っています.

多くの虫屋は記録として写真を撮って残していますが,スケッチに重点を置いている人は少ないようです.近ごろはデジカメの普及によってシャッターがより安易に押されている傾向が強いように思います.このことは,撮影者がものをよく見ていないという負の一面に陥る危険性をはらんでいます.これに対しスケッチは,出来の良否に関わらず対象物をよく見て描かないと絵や図になりません.ものをよく見る,ということは生態観察の基礎ですからこれからの虫屋は記録という分野でもっとスケッチに対して意識を向けていただきたいと思います.

スケッチに重点を置いている虫屋は少ないと前に書きましたが,私が理想とする方に出会えました.12年前,清さんから"蝶の駅"という「自分の雑誌」を送っていただいたときの心の昂ぶりを今でもよく覚えています.「あ,俺と同様絵を描きたがっている人がここにいる」と直感したのです."蝶の駅"55号分と引き続き発行されている"とちのき通信"69号分に載った膨大なスケッチはそのすべてが秀逸.前者の駅舎やその周辺を描いた景観は主として線画で構成されていますが,そこをまったく訪れたことのない者にも,その駅の長い歴史を考えさせます.後者にも駅や点描も交えた昆虫類の絵もたくさんありますが,私が白眉と感じているのは食通の清さんが駅前食堂などへ入って食べる料理のスケッチ.何と,干物やざるそば,さんまの開きなどが紙の上で躍っているのです.対象物が生き生きとして,見る者に深い感動を与えることこそスケッチの心髄ではないかと思います.清さんは恐らく,描きたい料理を前にしてペンを握りながら胸を波立たせているのではないでしょうか.ちょうど私が未知の幼虫を発見し,一通りの写真を撮ってからさて"これから俺の時間だ"とばかりスケッチブックを広げて期待に胸を躍らせているように.

 松本市で蝶の生態観察を続けておられる浜栄一氏からご寄稿いただきました.じつは私こそ理想としてきたのが浜さんで,1980年に築地書館から出された「チョウの昼と夜」が写真を一切使わず,風景人物まですべて点描画で通されたことに感動したのが始まりでした.ありがとうございました.(清)

 ちゃっきりむし No.160 (2009年6月1日)

  静岡県中部地域におけるコウヤホソハナカミキリの分布拡大について 平井克男

 2006年8月5日の平井剛夫氏による静岡市平山の本種の記録,2006年8月26日の諏訪哲夫氏による静岡市水見色,市民の森での記録を聞くや飛び上がらんばかりに驚いた.これまで静岡県内の本種の記録は大井川水系,天竜川水系の中流域にて多く採集報告されているが安倍川水系から県東部にかけての記録は毛無山の一例しか報告されていない.筆者は瀬戸川水系の高根山で調査の折,1992,1995,2001,2004年の7月後半,リョウブ,ノリウツギの花上より本種を採集している.ここでは近年個体数も多く見られ,ハナカミキリ類の最優占種となっている.安倍川水系では過去10年の調査で本種を見ることはなかった.静岡甲虫談話会,1988年発行「静岡の甲虫」Vol.6,bQ静岡県のカミキリムシ,市川恭冶,奥田宜生,草間慶一著においても安倍川以東の記録は見あたらない.いったい本種はいつ頃静岡市内安倍川流域に侵入したのだろうか? ここに興味深い資料が明らかになった.駿河の昆虫bQ22号インセクトノート2616の露木繁雄氏による報告である.氏は草間先生と生前永年のおつきあいがあり,草間先生のカミキリムシの標本を先生の死後管理されている.先生の標本の中からコウヤホソハナカミキリの貴重な記録が見出された.それによると1987年7月に2exsが先生の自宅近くの静岡市羽鳥で採集され,1993年には同じく羽鳥で多く採集記録されている.このことから1980年代後半には静岡市へ侵入がすでにされていると推定される.更に驚いたことに,最近天牛通信15号に久保田雅久氏による「日本平でコウヤホソハナカミキリを大量採集」の記事である.静岡市内低山で確実に本種が棲息していることが明らかになってきている.

※ 本種がどんな原因で分布拡大がされたのか今の所明らかではない.温暖化が要因なのか,食樹食物がスギ,ヒノキとのことであるがスギ,ヒノキが急激に低山に増えたわけでもないし,決定的なものは不明である.今後は県東部へ分布拡大していくことも考えられる.神奈川県でも分布拡大をしているようで,箱根で本種が発見されていることから東からか西からか分布拡大の興味はつきない.

※ 平井剛夫著「駿河の昆虫」bQ22.インセクトノート 2618:コウヤホソハナカミキリ 静岡市内2007年の採集記録.

 ちゃっきりむし No.161 (2009年10月5日)

  “静岡県産蝶類研究のパイオニア” 神村直三郎の業績 原 聖樹

 1. 周知のとおり,古く静岡県の蝶に多少とも関わりを待った人としてゴシケビッチ(1813−'75年),田中芳男(1838−1916年)あるいはプライヤー(1850−'88年)などが著名である.これらの方々の存在も忘れ難いが,長年現地で静岡県産蝶を調べて多くの種類を記録し,静岡蝶学の基礎を確立したのは丹羽甲子郎と神村直三郎であった.丹羽氏は1891年(明治24年)から1896年にかけて『動物学雑誌』に旧駿河・伊豆両国の蝶をメインとした報文(論文)9編を発表しているが,氏には他昆虫や諸動物(特に鳥類)に関する報文も多い.ここでは都合で,神村氏の業績を振り返ってみよう.

 神村直三郎は旧遠江国磐田郡岩田村(現在の磐田市)の住人である.1901年(明治34年)から1904年にかけて蝶を対象としたものだけでも『昆虫世界』に11編,『博物学雑誌』(動物標本社)に1編、『動物学雑誌』に3編の報文を発表している.これには記録地が明記されていない報文も含まれているが,かといって氏は磐田郡以外の地名が登場する報文は書かなかった.当時の交通事情を考慮すれば,手弁当持参の徒歩によるケースも多かったかと思われ、おそらく調査範囲が同郡を越えて拡大することはほとんどなかったであろう.次に,氏の業績を要約してみる.

 @遠江から55種(当時)の蝶を記録し,各種の発生期や個体数の多寡を明らかにした.特にウスバシロチョウ(磐田郡光明村光明山=現在の浜松市)・ツマグロヒョウモン(11月に現われ極めて少)・ムラサキシジミ(1月に木の洞穴にて越冬中の成虫を捕える)などの記述は興味深い.また,磐田原においてギフチョウを発見し(成虫・卵・幼虫・食草カンアフヒ),注目を浴びた.

 A分類群の異る多種類の昆虫を飼育したが,そのうち蝶10種について食草を併記している(野外で卵・幼虫あるいは蛹を採集した旨明記した種を含む).当時とし(は珍しく飼育好きの人である.

 B現地観察および飼育の両面から日本で初めてツバメシジミの幼生期を明らかにし(食草コマツナギ),一方でアサギマダラの生活環を解明した人がこの神村氏であることを,会員の皆様はご存知だろうか.特に『昆虫世界』5巻49号(1901)のロ絵を飾ったカモメヅル上の岩田村産アサギの図(卵・2眠起および4眠起幼虫・下垂蛹)は見事というほかない.本種の幼虫越冬を示唆している点も注目される.

 C他にも,小笹に下垂するヒカゲチョウ蛹を見つけたり,カマキリが野外でイチモンジセセリ成虫を比較的高率で捕えていることなどの記述も見逃せない.

 2. 神村直三郎は,1900年3月21は〜4月3日の2週間にわたって岐阜の名和昆虫研究所において開催された第3回害虫駆除講習会を修業した.氏は文久2年(1862年)11月の生まれであるから修業時の年齢は満37歳であり,その履歴には"小学校本科正教員免許"と記録されている.翌1901年には前述の月刊雑誌に計4編の地元産蝶に関する報文を寄せているので,すでに当時かなりの研究経験を有していた御仁といえよう.

 その後,1903年に大阪で開催された第5回内国勧業博覧会に氏は昆虫標本を出品して受賞された(5ヶ月間の開催中,入場者数435.1万人,出品者数11.8万人と伝えられる).さらなる氏の名誉として1909年には,小学校教授用昆虫標本を作成して志太郡展覧会に出品し、静岡県知事より賞状と金一封を授与されている.その後の消息は不明である(調査中).

 末筆ながら,資料収集面でご助力いただいた井上大成氏に深謝する.


 ちゃっきりむし No.162-1 (2009年12月21日)

  日本鱗翅学会第56回全国大会よもやま話 間野隆裕

日本鱗翅学会の全国大会は毎年,支部の持ち回りで開催している.
東海支部は,大学の有田豊教授が2007年から会長職ということからも,愛知県名古屋市のかれこれ20年ほどやっていないので,同学会評議員会で東海支部の名が上がったときは「やっぱりか」と思った.

東海支部は愛知・岐阜・三重・静岡の4県から構成されているが,静岡県は4県中最も近年の大会を開催しており,同学会自然保護セミナーも開催している.残り3県から選ぶに当たって,愛知県にある名城同大学で実施することが当確となった.有田研究室(環境動物学教室)はスカシバガなど昆虫の専門家(ここでは同好者+研究者+各種調査員を含む)を多数輩出している.お膝元で実施するが,教え子が多く,自分の出る幕はないだろうとたかをくくっていたが,「間野さん,よろしく」の一言で実務面の責任者が決まってしまった.

何せ全国大会運営は初めてのことだから,まず資料集めに取りかかった.当日の状況は54回大会(新潟大学)と55回大会(九州大学)の写真を撮り,おのおのの事務局から関連資料を頂戴した.やはり,大会会長等要職は重要で,自分としてはなんとしても東海を代表する人にお願いしたい.当然有田豊教授は主催者として加わり,生態図鑑の著者としても著名な方でもある,高橋昭氏に大会会長を,高橋真弓氏に実行委員長を,それぞれお願いをして,高橋両大御所に快く引き受けていただいた. 今になって思えば,両大御所には期間中を通じて大変,お世話になった.

次に仕事の出来ない自分としては,仕事のしていただけるスタッフをそろえることが成功の大前提と思い,北條篤史氏,諏訪哲夫氏,清邦彦氏,枝恵太郎氏,城内穂積氏など,先のお二人を含む総計23人の実行委員会を立ち上げた.小生の仕事は,これでほとんど終わったようなもの.精鋭メンバーのスタッフで固めて,後は実行委員各位のお力で作られた頑強な「名古屋大会船号」の舵取りだけだ.準備から本日までの期間中,大会事務局として明示してあった勤務先受信の関係メールは693通,自宅で受信した関係メールは776通(両者の重複メールは多数あるが),作成した資料ファイル100点であった.これはとりまとめ者としてのデータのみなので,各担当,例えば要旨集担当者西原かよ子氏と講演者や印刷業者,集合写真担当者宮野昭彦氏とフォトスタジオ,シンポジウム担当者北條篤史氏(枝恵太郎氏)とシンポ参加者との,それぞれのやり取りなどの件数は含まれていない.結構な事務量であったが,これも精鋭メンバーのなせる技,無事当日を迎えた.

万全の(?)準備をして望んだ当日,と思っていたのは小生だけだったのか,初日のレストランが当日休業だとわかり昼食を学内レストランで食べることが出来なかったり,朝パソコンと映写機との相性不具合で,パワーポイント画像が映写機だけがずれていたり,二日目朝,昨日と同じ会場にも関わらず全く映写機が立ち上がらない,特定演者のパワーポイント画像が発表予定の会場の映写機だけ写らないなど,トラブル続きであったが,その都度実行委員を中心とする皆で,修正したり,会場変更などで乗り切った.

中でも一番困惑したのは,当日参加者の多さだ.事前(一定期日まで)に申し込んだ人は,参加費と懇親会費を安く設定するなど,事前申し込みを優遇してあったのだが,その2,000円の魅力にもかかわらず,事前申込者数の約半数以上の人が,事前申込者と共に同時間帯に殺到したから,受付はパニック!.受付担当中西元男氏と村瀬卓平氏の機転と努力で,何とか乗り切った.予算上はそれとして良かったのだが,昼食や懇親会参加人数等が大幅に変更となり,急遽料理等を追加するなど走り回る一幕もあった.

しかし,2日間を通じて,なんとか無事終了することが出来たのは,やはり実行委員各位の連携と協力があったからであり,皆で作り上げた大会であった. やり遂げたという充実感からか,実行委員会の打ち上げで飲んだお酒は格別であった.
 来年度は関東大会(東京大学),再来年度は北海道大会(おそらく北海道大学)が決まっており,上記で残された資料はセットにして,申し送りをした.
 今回の大会準備にあたり,昨年,一昨年の資料が非常に役に立ったように,つたない資料でも,何かに役立てていただけることを期待して・・・.

 ちゃっきりむし No.162-2 (2009年12月21日)

  アサギマダラの移動の調査のマナー 清 邦彦

8月の富士山でのアサギマダラ調査会の参加者が放した個体が愛知県安城市と鹿児島県喜界島で再捕獲されました.私の関係でも八丈島を中心に面白い記録が出ています.

 アサギマダラの調査が盛んに行われるようになって多くの成果が出てきましたが,同時に参加者が多くなるにつれて問題も感じるようになりました.関係団体で直接言うと,該当される方が不愉快に感じられることを心配して,本誌を通して間接的にメッセージを発することにしました.

 だれでも気楽に参加できるということは大事なので,『約束』ではなく『マナー』としておきます.アサギマダラの移動の調査は相手あって成り立つもので再捕獲者のことも考えて下さい.
 @マーキングを行うことは「共同研究に参加する」と言う気持ちを持って欲しいです.風船に手紙をつけて飛ばすのとは違うと思うのです.
 A必ず再捕獲者が連絡できるようにしてください.初期の頃は電話番号を記入していましたが,今ならアサギマダラのネットワークに参加している人に標識を伝えておくのがよいと思います.
 B研究の責任を持つ意味で,実名が公表されることを承知の上でマーキングしていただきたい.
 C問い合わせれば,少なくとも標識地,標識日,標識者はわかるように控えておいてください.
 D同じ場所で複数個体が再捕獲されることがあるので,個体番号は記入した方がいいです.
 E個人記号は他の人と重複しないように気をつけて下さい.言いにくいですが私の行動圏の近くで「SEI」の記号の使用は混乱されやすく困ります.SEIは私の本名そのもので20年近く使っております.
 F文字化しにくいハートマーク,ニコちゃんマーク,イラストなどは避けて欲しいです.
 G初期の時代ならともかく,捕獲地から離れた場所での放チョウは自然とはちょっと違うので参考記録扱いではどうでしょうか.
 H標識者,再捕獲者,仲介者のいずれにも発表の権利があり,ネットで公開された写真の使用も含めて,互いに了承を得る必要はない,という取り決めを提案します.