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<Web ちゃっきりむし 2014年 No.179-182>

● 目 次
 平井剛夫:静岡市駿河区石部の石部山のシイノキ林にヒメハルゼミが鳴いていたころ(No.179)
 諏訪哲夫:県立自然史系博物館ついに設立へ  (No.180)
 池谷 正:採集天国ラオス (No.181)
 平井剛夫:小泉八雲が焼津で出会った虫(No.182)

 ちゃっきりむし No.179 (2014年2月25日)

  静岡市駿河区石部の石部山のシイノキ林にヒメハルゼミが鳴いていたころ 平井剛夫

 静岡市の駿河区の長田地区の長田南中学校の通学地域になっているのは、大崩海岸に近い石部から、用宗、小坂、青木、大和田、広野、下川原と、安倍川まで続くかなり広い範囲になっている。
 この中学校の校区に市内の安東から用宗に引っ越してこられた一家があった。北條さんだった。長男の篤史さんは、東海道線の線路の向こうにある城山さんにチョウ採りに通い続けておられたようだ。
 この北條さんに影響を受けて、捕虫網をかついで「チョッチョ採り」をする近所の少年たちが現れた。ヤマモトクン、イケガヤクン、マスダクン、キッカワクン、いずれも筆者と同じ長田南中学校に通った同級生たちと、いっしょについてまわった弟たちだった。イケガヤクンの弟の池ヶ谷敏雄氏は、今も本会員で活躍されている。
 最近、筆者の兄の克男より譲り受けていたチョウのコレクションの中より、ツマグロキチョウを見出した。標本は2頭あり、いずれも同じ採集記録で、手書きのラベルに、59.9.30と記されている。このため採集者は不明だが、自分の筆跡でもあり、剛夫とし、駿河の昆虫(bQ45)に報告した。この広野に、長田南中学校があり、本種は学校付近で採集したものと考えられる。当時、筆者は、採集した個体がツマグロキチョウの秋型であることも気づいていなかった。北條氏によると、食草のカワラケツメイは、現在、丸子川や安倍川の広野において、かれらの生息にとって必要な特有な河川敷は、大規模な河川改修がなんどもなされたため、生息確認は極めて難しいと思われるが、当時は生息の可能性は十分あったとのことであった。このチョウについては未調査だったのが残念だったようだ。
 用宗駅の石部側に、別の虫好きのわれわれ兄弟がいた。父親の職場が石部側にあったため、いつも出かけていた虫取り場所は、北條さんが通っていた城山さんより別々であった。
 用宗にも暑い夏がめぐってきた。城山さんのいただきに大きなタテハが旋回した。もってるタモではとても届かない。北條さんは、そばにあった物干し竿のようなタケを、もっていたタオルとズボンのベルトでタモをゆわえグルグルまいた。そしてそのタテハをめがけてタモは空を切った。「ヤッター!!」城山さんにおおきくどよめくような歓声があがったのは想像に難くない。オスの立派な個体だった。オオムラサキを城山さんで竿をつなげて採ったという話は、その後、なんども語られた。ちょうど、講談本で読んだ大久保彦左衛門の「トビの巣文字山の初陣のみぎり・・・」のように。
 そして、それから50年有余の歳月が流れた。われわれにも、北條さんにも、思い出とともに、そのころ採っていたチョウのコレクションが今も残っていたのが幸いである。
 下川原から安倍川に向けて水産工場などが立てられ、一帯は著しく変貌をとげた。さらに用宗漁港ができてわれわれが通った中学校は今はもうない。思い出の中にだけ残る、松林に立つ校舎が今も目に浮かぶ。
 今、この持船城の城山城跡には、立派な看板が立てられているという。数多くのチョウが集まる場所としての説明が書かれているという。じかにその看板を見てみたいものである。

 ちゃっきりむし No.180 (2014年5月15日)

  県立自然史系博物館ついに設立へ 諏訪哲夫

 今からおよそ30年前、自然史系博物館を創ろうという機運がもちあがり、自然関連の各団体は県や市に対して働きかけをし、静岡昆虫同好会もその運動に参画しました。1986年県は新総合計画に位置づけし検討を始めました。しかしこの構想も残念ながら実を結ぶことがなく永い年月が流れました。それでもこれらの行動があったためか、県内には個人が所蔵する昆虫標本のほかにも、化石や植物などさまざまな分野の大量かつ貴重な標本が集積されていて、これらが失われたり、散逸してしまうことに対する危惧から、県は、はじめは教育研修所(三島市)に、その後現在の旧清水保健所に自然学習資料の収納場所として標本管理を行うことになりました。この標本の管理を委託されているのぱ静岡県に自然史博物館をつくろう"を活動目的に掲げているNPO静岡県自然史博物館ネットワークですが、静岡昆虫同好会の会員が全面的に協力して標本整理・管理を行っています。すでに収蔵されている昆虫標本は、静昆の会員をはじめ県外の方々や亡くなられた方などから寄贈されたものでドイツ型大型標本箱にして1500箱ほどに達しています。清水の収蔵能力はおよそ1200箱くらいですからすでに300箱ほどが収容しきれない状況となっています。
 ここ2−3年前から急速に自然史系博物館の設立に向かって県は動きだしました。場所は日本平の南西麓、静岡大学に近い旧県立静岡南高校の校舎を改修して使用することが決まり、この改修費用と備品等の予算として2014年度には5億5200万円が計上されました。現在改修]し事は順調に進捗し、6月末に完成が予定されており、その後標本収納庫の設置工事を行い夏には標木の引越しをする予定となっています。新しい標本の収納庫は校舎の2階、普通教室より大きい特別教室を2部屋使用し、標本箱約1万1千箱収納できるスペースが確保できそうです。
 博物館の名称は知事の肝いりで「ふじのくに地球環境史ミュージアム」に決定し、2015年度の初めにはオープンする予定です。ただし、常設展示などの設計や工事は引き続き行うこととなり、本格的博物館としての機能を発揮するのは2017年度以降となります。  新しいこの博物館はどのような理念で機能させていくかについて、有識者で組織されたふじのくに自然系博物館基本構想検討委員会で検討され、「基本構想」がまとめられました。この概要を以下に紹介します。
 まず、館の名称でもある「環境史」は聞きなれない言葉ですが、『分布する多様な動植物の実態と成り立ちを調査研究する「自然史」を基礎に、人と地球上の生態環境の関わりを歴史的に研究し、過去から現在を見通し、未来のあり方に示唆を与える。』と説明しています。  新しい博物館の理念としては、@地域の自然の探求と資料の保管・継承、活用A新たな地域学の創造 B「有徳の人づくり」の推進 C知の拠点づくりの4本を掲げ、本県に求められる博物館像として10年、に及ぶNPO法人等との協働による自然学習資料センターの活動を発展的に継承して、@地域の特徴を活かした魅力づくり、A地域づくりの先導役を担う新たな拠点 B後発ならではの工夫と先導性の確保の3つを柱に、世界の宝・富士山の名に恥じない全国に誇れる新しいタイプの博物館を目指すとしています。
 また、運営については学芸員を「環境史」「地質・岩石・地震」「生命・昆虫」 「生命・脊椎動物」「生命・植物」「生命・化石(古生物)」の6分野を基本に配置し、大学、NPO法人、地域の研究者、学生、市民などと幅広い協働のもと博物館活動を進めていくとしています。
 やっと実現にこぎつけた自然史系博物館ですが、我々が昆虫サイドから思い描いていた博物館とはやや異なった方向にいった感じもありますし、別の角度から見ればスケールが大きくなったように感じられます。すぐに理想的な博物館となって活動するようになることは考えられません。永い年月をかけて理念が示すような理想像に近づいていけばよいと考えています。そのためにも地域で地道な活動を続けている静岡昆虫同好会の協力が不可欠であると思っています。

 ちゃっきりむし No.181(2014年9月20日)

  採集天国ラオス 池谷 正

 蝶の国内自己採集種は230余種を超え、さらに増やすには迷蝶狙いと石垣島、西表島、与那国島へ通い始めた。イワサキコノハやコモンマダラ等「迷蝶」にはなかなか遭遇できないまま、『チョウを運ぶ風を読み』即行動するベテラン蝶友を羨ましく思っていた。発生地へ行けば簡単に採れるだろう?そんな時(2009年)城内穂積氏からラオス行きの提案があり参加。最初は「牛に引かれて・・・」で特に狙った蝶はなく、がむしゃらに採りまくった。出会う蝶は初物ばかりで、種類・数の豊かさ、それに規制がほとんどないという『採集天国』に魅せられ、以来6回のラオス採集行に参加した。

 東南アジアに位置するラオスは中国、ミャンマー、タイ、カンボジア、ベトナムの5ヵ国と国境を接し、日本の本州ほどの広さを持つ内陸国。国土の70%が高原や山岳地帯で緑豊かな森が多く残っていた地域だが、近年急激な森林開発が進み、二次林やプランテーション(ゴム、バナナ、砂糖キビなど)が増え、原生林は激減している。気候は熱帯性気候で雨季(5月〜9月)乾季(10月〜4月)があり、年間平均気温は約28度。労働人口の約8割が農業に従事しており、GDPは低いが食料は 豊富で「貧しい国の豊かさ」を感じる興味深い国。交通手段は鉄道がなく、車での移動になるが都市部以外の幹線道路が漸く舗装された程度で、一般道はほとんど未舗装で車の通行には時間が掛かる。

 ラオスの蝶類は『ラオス蝶類図譜』(1999年/長田志朗ほか)で876種であったが『進化生物研究第17号』(2012年/中村紀雄・若原弘之)で978種に改訂されている。何と日本の約4倍の多さである。

静昆メンバーのラオス遠征は2008年8月に始まり、以降2014年5月まで10回を数えている。第1回から第6回までの採集記録は参加メンバー11名で434種である。その報告は『ゴシュケビッチNo.3』(2013年/諏訪哲夫ほか)をご覧いただきたい。この場では私が参加し、未整理・未発表の第7回と第10回の話を書き留めたい。

 第7回(2013年3月24日〜4月6日、参加者=諏訪哲夫、鈴木英文、菊地泰雄、福島章、筆者)はラオス北部の中心都市で町全体が世界遺産に指定されているルアンパバン(Luang Prabang)から最北部・中国雲南省との国境までの旅程を計画した。

 約200q北の県都ウドムサイ(Oudom Xai)付近では東11qに位置する「滝(alt.1272m)」が好ポイント。豊かな森林に囲まれた明るい渓谷で水辺を目指して蝶が集まる。ここでは静岡G(しずおかグループ)初記録、大型のパタライナズマ(Euthalia patala)を採集した。郊外のNam kat National Parkでは入口付近の沢で7〜8♂のヘレナキシタ(Troides helena)の吸水行動を観察した。豊かな森林が奥まで続き、林道と交差する沢付近では多くの蝶が集まっていた。特にDelias類が多くベリンダ(D.berinda)やベラドンナ(D.belladonna)など6種類が採れた。ここはAppias類、Mycalesis類、Ypthima類、シジミタテハ類など種類も豊富で季節を変えて訪れたい好ポイントである。

 さらに220q北に位置するポンサリ(Phongsali)は北部最大の県都である。その町の裏山に位置するプーファー山(Mt.Phoufa,alt.1640m)の中腹から山頂は良い採集ポイントである。ワモンチョウの一種Enispe euthymius(諏訪氏採集)や4ッ星(タイ蝶類図鑑)のシジミタテハAbisara burniiなど静岡G初記録のレアーな種が採集された。

 ポンサリから更に128q北上、最後の町ウタイ(Outai)はゲストハウスが2軒、食堂2軒の小さな町で中国の影響を強く受け森林伐採が進んでいた。残された裏山にはラティシロオビワモン(Thauria latthyi)がトラップに集まってきていたがその森も風前の灯である。ここから50q北が中国雲南省との国境でその間に5つの村が点在している。道路を挟み両側の斜面は焼畑が進み、サトウキビ、バナナ、ゴムの畑に変わり、良好な採集地は見当たらず、期待外れであった。

 第10回(2014年5月17日〜5月28日、参加者=諏訪哲夫、鈴木英文、菊地泰雄、筆者)は首都ビエンチャン(Vientiane)から東進しパクサン(Pakxan)で北上、サムヌア(Xam Neua)からベトナム国境までのラオス北東部の旅程を計画した。

 県都ポンサバン(高原のリゾート地)から北東約80qに位置するタ(Tha)村には素晴らしい森林が広がっていた。林道からの枝道を入った所に現地案内人・カンブンさんの「ユータリアポイント」がある。5月中旬は憧れの蝶・ビャッコ(Euthalia byakko)のトップシーズンとの事。早速ベラカン(トラップ)を葉に塗りたくると間もなく大型のユータリアが飛翔した。今回全員が採集することができた。その日はマツタケと川海苔で乾杯した。

 ベトナム国境に近いサムヌア(Xam Neua)付近にテングアゲハ(Teinopalpus imperialis)の生息地で有名なホウパン山(Mt.Pan,alt.2079m)がある。そこは「ラオス蝶類図譜」掲載のゼフィルス類の採集地でもある。登山口の村でポーター4人を雇うことで入山の許可を得て出発、片道約2時間半で山頂へ。直下でゼフィルス(カノミドリシジミと思われる)の飛翔が観察できた。テングはシーズンオフか?好天にもかかわらず姿なし。蝶の数はあまり多くなかったが静岡G初記録のヘリグロシジミタテハ(Stiboges nymphidia)など3種を追加した。

 今回も新種発見とはいかなかったが「種へ昇格」と言うトピックスがあった。9日目最後の採集地バンビエン(Vang Vieng)への途中、ポーヤン村(Phou Yang)で半径50mのエリアでほぼ同時(30分前後)にLetheを諏訪氏と筆者が採集した。その場に現れたLethe研究者の鈴木英文氏が現在は同一種とされている原名亜種とハイナン亜種の2亜種が同時・同地で採集された事で『1種増える』と宣言、3人で大喜びした。詳しくは鈴木氏が近日中に発表するので楽しみにしている。

 7回と10回で静岡G初記録が約80種あり、6回までの記録を加えると500余種となる。全978種にはほど遠いが、時期と場所のどちらかを変えて行けば、まだまだ採集種の増える魅力的な国である。静岡Gが行っていない南部にも行かなければと考えている。

 ちゃっきりむし No.182(2014年12月10日)

  小泉八雲が焼津で出会った虫  平井剛夫

 小泉八雲ことラフカディオ・ハーンといえば、『耳なし芳一』や『雪女』などの日本の怪談話を再話文学として位置づけ、広く世界に伝えた人として知られている。小泉八雲として知られているために、今では、外国人だったのかと思っている日本人もいるかもしれない。

 八雲の著作の中で、わたしの気に入っているのは『漂流』(田代三千稔訳;角川文庫「日本の面影」)である。読み終わってみて、台風の風で飛んできた塩の匂いがまとわりついているような気持ちに襲われた。そして、八雲が焼津で過ごしたとき、当時の焼津の人たちとの逸話や、とくに八雲に宿屋を提供した魚屋の山口乙吉との交流について『乙吉の達磨』を読むと、ほのぼのとした気持ちになれる。島根大学で、2001年、日本応用動物昆虫学会が開かれた折、松江市にある八雲と彼が生前に住んだ家と記念館を訪れたことがある。その陳列品の多くの遺品のなかに、とても凝った見事な工芸品と思える竹細工の虫の籠を見つけた。八雲は、とても鳴く虫に興味があって、ただ、飾っておくのでなく、自ら飼育をして鳴き声を楽しんだことが書かれてあって心ひかれた。

 後に、八雲は、東京大学で教鞭をとった際、講義のなかで「本当に虫を愛する人種は日本人と古代のギリシャ人だけである」と結論している。彼の母はギリシャ人である。昆虫の文化誌に詳しい小西正泰さんが「八雲の虫好きも、これに根ざしているかもしれない」(『虫の文化誌』の「文学者と昆虫」;朝日新聞社、1977年)といわれるのもなるほどと思う。

 私は、生まれ故郷の静岡に戻ってきて、焼津にある八雲記念館に訪れた。この資料館には焼津だけでなく、八雲に関する数多くの資料が残されているが、虫に関して私の興味を惹くものがあった。八雲は静岡ではじめてクマゼミを見たと記された資料にくぎ付けになった。ただ、そのときは、時間が余りなかったため、再度訪れようと、記念館を後にした。

 小泉八雲の昆虫については、元島根大学の教授の長澤純夫さんがくわしく調べておられ、『蝶の幻想』を著され、昆虫学からみた八雲の論説をされている。クマゼミのことを以下に引用させていただく。

 『二、しんねしんね(クマゼミ) しんねしんねは、またの名を熊蝉、山蝉、大蝉ともいうが、これは五月の声を聞くと早々に鳴き始める。非常に大きな蝉で、体躯の上半はほとんど黒色、腹部は銀白で、頭に奇妙な赤斑がある。しんねしんねというのは、その鳴き声からきている名前で、シンネという音を口早に続けてくりかえすとそう聞こえてくる。京都では、この蝉は普通に見られるけれども、東京でその声を聞くのはまれである。

 わたくしが初めてクマゼミを見たのは、静岡であった。その鳴き声は、日本語の擬音詞よりもはるかに複雑で、ちょうどミシンを力いっぱい踏みまわしているときの音に、よく似ているようにわたくしには思われる。二重音で、金属をかち合わせるような鋭い音が、連続して聞こえるばかりでなく、なおその下に、鋭いガチャガチャという音がゆっくりと聞こえてくる。発音器官の、腹部腹面に見える腹弁と呼ばれる部分は淡緑色で、それがちょうど小さな葉っぱを一対くっつけているように見える』(『蝶の幻想』):小泉八雲著 長澤純夫=編訳、築地書館、1988年、84ページ)。

 5月に、クマゼミの鳴き声を聞いたということは、時期的にみてえらく早い。7月上・中旬ならわかるけど、あるいは、ハルゼミと勘違いしたかもしれないとも思われる。しかし、ミシンを力いっぱい踏みまわしている音といったら、東海地域では、クマゼミ以外は考えられない。ただ、この執筆は東京でなされたというから、あるいは季節を取り違えた可能性もあるかもしれない。八雲が東京にいた当時、まれであっても、実際にクマゼミの声を聞けたのだろうか。腹弁の色を淡緑色と観察しており、顔にある赤斑まで詳しく見ている八雲の虫好きに驚かされる。観察した個体は、鳴いているから当然オスであるが、メスは見なかったのかなと思う。虫好きの文豪が雌雄をどうちがうか記されてあったら、と興味がもてた。二重音として分けているのは、さすが昆虫に詳しい八雲の観察眼ならではのことである。

 今でも、クマゼミは静岡の平地の海岸や、林というより、民家の屋敷周りのどこにもいて、夏の暑さに耐える人なら、容易に観察できる。静岡のどこなのかはわからないが、八雲はこの焼津を殊の外、気に入っていたようで、なんども長期の滞在をおこなっている。焼津でみたものとしてさしつかえないと思う。小西さんは「この文豪は、かなり一徹なところもあったようだが、その半面、すべての生き物にひたむきな愛情をそそぐやさしい人でもあった。静岡の焼津で「黒トンボ」と呼ばれるトンボを捕まえた。けれどもあまりの美しさに打たれ、その平和を乱したことを後悔し、すぐにもといた灌木に返してやったそうである。」と記している。

 このトンボは北海道をのぞく全国に広く生息する「ハグロトンボ」でいいと思う。この館の資料では、焼津神社に参拝した後、この黒トンボを捕まえたことが書き残されている。この黒トンボは作品の「蜻蛉」に登場し、焼津付近の「オハグロトンボ」「コーヤトンボ」と伝えられる(焼津小泉八雲記念館-八雲と焼津、2007年)。ハグロトンボは、オハグロトンボと同じとみていいだろうが、コーヤトンボと同じ種類か、地元の駿河や遠州のトンボ類に詳しい愛好家に尋ねて確かめてみたい。確かに、多くのひとには、黒い翅のトンボとしか見えないだろう。よく見ると、見る方向で青紫色にも輝くのである。八雲がこのトンボの美しさに打たれたということでわかるように、このことを見ても、八雲がいかに虫好きであるかを示している。

 八雲が、静岡で出会った「黒トンボ」との体験は、明治37年(1904年)8月15日に妻のセツに宛てた書簡のいわゆる「ヘロンさんことば」に書かれてある。この資料館に所蔵者の好意で展示されているこの書簡を、後日、所有者に連絡をとってもらえ、館の許可のもとで、実筆とじかに対面することができた。

 私自身、『蝶の幻想』の編訳者の長澤さんには、1991年、静岡大学で開かれた日本応用動物昆虫学会の折、懇親会の二次会の席で、いろんな意味で尊敬してやまなかった職場の上司でもあった長谷川仁さんに紹介されてお目にかかっているが、長澤さんが「蝶の幻想」を著された頃、現在私と同じ静岡市内(当時は清水市)の清水に住んでおられた。早くお目にかかってもっとお近づきになっていればよかったとつくづく思う。残念ながら、お二人とも他界されている。

 私は、静岡市の焼津側の石部に近い用宗で育ち、海辺で泳いだり、石部山で虫とりや魚釣りをしたりして日がな過ごしたものである。八雲が好んで滞在した焼津は、静岡市と焼津をつなぐ大崩の海岸をひと山越えればすぐのところであり、およそ百年は経ってはいるものの、八雲がなんども泳いだという焼津の海岸の、波の音、潮目の変わる海の色まで、当時のままではないかと不思議な思いにかかれる。遠浅の遠州や御前崎の海岸より、荒海だけど、砂利入りの浜がすぐに深くなっている焼津の海が好きだったという。海で泳ぐことが好きだった八雲が、すぐ泳ぐことができる焼津の海が気に入っていたことは、石部や用宗の海でおなじ体験をしている者として、その気持ちはよくわかる。

 この小文をつづるにあたり、焼津市の八雲記念館の丸山博信館長、学芸員の増山慎さんに大変お世話になった。とりわけ増山さんには、八雲に関する資料を、手際よく用意していただき、八雲のひととなりを、適切にひもといてくださり、八雲の虫好きを理解する上でとても参考になった。お礼申し上げたい。水戸昆虫同好会の会長の久保田正秀さんが、長澤純夫さんの『蝶の幻想』の編集をされていた。久保田さんとは、タイの虫探しの旅で、10日間ほど昼も夜も虫漬けの体験をして仲間といっしょに楽しんだことがある。今回、八雲の焼津での虫に関して参考になる手がかりを教示され、お世話になった。お礼申し上げる。