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<Web ちゃっきりむし 2018年 No.195-198>

● 目 次
 平井克男 シリーズ 昆虫のいた時代B「私の昆虫少年時代」(No.195)
 宇式和輝 シリーズ 昆虫のいた時代C「谷津山から安倍奥へ」(No.196)
 鈴木英文 42年前の大法螺(No.197)
 平井剛夫 虫探しの裏技は忘れものの神様から(No.198)

 ちゃっきりむし No.195 (2018年2月)

 シリーズ 昆虫のいた時代B「私の昆虫少年時代」 平井克男

 私が静岡市立長田南小学校へ入学したのは昭和24年で、新幹線が走り、東名高速道があり物質的に恵まれた現在と違って、前の敗戦から立ち直ろうとしていた暗さと明るさの混ざった時代だった。用宗の自宅から学校まで徒歩で約30分くらいはかかったと思う。長田南学区は小坂、石部、広野、下川原、大和田、青木、用宗地区から成っていて、面積的にも広い地区で、半農半漁の村であった。長田南中学校も併設されていて、しばらくして、南の海岸近くに移設された。中学校はここへ通った。今でも、かえすがえす残念なことがある。現在用宗漁港となっている場所は、所々、湿地で、湧水があり、アシが一面に繁っていた。水生昆虫の絶好な棲息地であったはずで、調査すれば貴重な種が相当棲息していたと想像ができる。しかしながらまだ水生昆虫のことなど考えてもいない頃のことだった。

 昆虫との初めての出会いは、本会60周年記念誌に記述した、本会の大先輩、桐竹睦好さんとの知己を得たからであった。当時静岡市石部に住まわれていた桐竹さん宅を訪れ、整理された標本箱に並ぶチョウ、ガ、甲虫、セミ類などを見ながら、お話を聞き、昆虫の魅力にはまっていった。 用宗の自宅からさほど遠くない石部山はミカンやチャが植えられ、雑木林も部分的に残されていて、私と弟剛夫の子供時代のすばらしいフィールドであった。ミカン畑をぬった山道のマキの葉上にいたモンキアゲハの交尾ペアを採集し、桐竹さん宅へ持参し展翅をしていただいた。1954年7月25日の標本は現在も保管できている。後日、多くのムシの集まるヤブガラシを自宅の庭のマキの垣根のかたわらへ植えておいたのを父親に見つかり、これは庭木をいためてしまう悪い植物だ、と引き抜かれてしまった苦い思い出もある。

 石部山の片隅にシイの林があり、そこにヒメハルゼミが棲息していた。本当にこのセミを採集するのは難しかった。7月上旬、シイの木の上の方で一斉にやかましく鳴き出し、まもなく全くの静寂となってしまう。下からのぞき、さがしても、どこにいるのかさっぱり分からない。漸く捜しあてても、シイの小枝が邪魔になってセミの処までタモが届かないという悪戦苦闘のひとときもあった。

 用宗の東側を小坂川が流れ、駿河湾に注いでいる。小学校の頃、土曜日の午後は小坂川へ行きエビガニ(アメリカザリガニのことをこう呼んでいた)取りに夢中になっていた。バケツ一杯のエビガニを家に持ち帰り塩ゆでにして、おやつ代わりに食べていた。小坂川の少し流れのきれいな所にアカッパラ(イモリのことを言っていた)が泳いでいたし、川の脇の水田の入口のたまりになっていた小さな池には、現在レッド種のナミゲンゴロウが泳いでいたのを目撃している。

 用宗の自宅より石部山を尾根伝いに花沢山(航空灯台の山と言っていた)へ行き、日本坂へ下り万観峰への登り口から高草山へのルートをさがしあて、このコースを数回往復したことがある。今思うとかなりバリエーションのあるルートだと思う。朝8時頃から出かけ自宅へ帰りつくのは午後4時頃で、丸一日の行程であった。低山とはいえ、途中、道がとぎれたり、急な登り、下りもある複雑なコースであった。弟剛夫とか同級生と数度でかけたことを記憶している。途中ジャノメチョウがチャ畑、ササの原から飛び出したりミドリヒョウモンやアサギマダラに出会える楽しいコースであった。高草山では山頂付近の草原にキスミレが至る所に咲いていた春の時期も思い出深い。現在キスミレは殆ど見られなくなってしまっている。

 用宗からJRで草薙へ行き、そこから草薙神社を経て日本平へ弟剛夫と登って、日本平の脇の草地で、その当時稀少であったツマグロヒョウモンを採集したのも忘れがたい。現在本種がこんなにいたる所に舞っているなんて思いもよらないことだった。標本は1955年7月17日のデータでこの標本を熱望されていた北條篤史氏に後年お渡しした。私にとって中学1年の時の最大の出来事は、静岡より北條篤史氏が用宗に引っ越して来られたことである。彼はひとつ上の中学2年生、チョウの取り持つ縁で、すぐ親しくなり以降長いつき合いが続いたものである。

丁度この1955〜56年はクロコノマチョウが静岡市内のあちこちで記録され、棲息場所確認のブームがまき起こっていた時期であった。北條兄弟、平井兄弟が自転車で用宗の周辺の神社を調査しまくった。本種の夏型を夕刻、赤坂の熊野神社、大和田の大和田神社、石部の白髭神社、など、クロコノマはお宮さんをさがせということで、調査地へ自転車で走り回った。かなりの成果があった。調査の際はカに刺されたり、ササで手足に切り傷を負ったりしたことも、あたりまえの事であった。

 又藁科川が安西橋へ流れるあたり慈悲ノ尾の川の土手にミヤマシジミが多数棲息していた。そこの近くにヤナギの木が10数本あり、そこに、コムラサキやゴマダラチョウが吸水して群がっていた。用宗から北条氏と自転車で約1時間ほど走り、採集に出かけたことも懐かしい思い出であった。当時昆虫採集には自転車は一番最適な乗り物の手段だった。ジャリ道や坂道、水たまりの多い悪路は苦労して走ったこともあったけれど。

 中学2年生の時、桐竹さんの弟弘さんと、当時は夢でもあった北アルプスの蝶ヶ岳から常念岳へと登った。静岡から夜行列車などで長野県の松本に着き、島々からバスで上高地へ向かった。バスの車窓から焼岳の噴火でできた大正池、流れの清らかな梓川、焼岳や穂高などが望まれその光景に胸が躍った。日本登山隊がエベレスト山脈の高峰の一つ、マナスル登頂成功に日本中が湧き、登山ブームがおきていて、聖地の上高地は登山者が多く集まってきていた。上高地から横尾山荘へ行き1泊、ここから急登が続き蝶ヶ岳の尾根にたどりついた。この尾根から、槍ヶ岳から穂高山脈へと一望できる大パノラマはほんとうにすばらしい光景でした。一方、尾根沿いのなだらかな道沿いにはハイマツの群落があったり高山植物の可憐な花々が咲くお花畑に出会ったりする環境でそのすばらしさに堪能させられた。ベニヒカゲ、クモマベニヒカゲ、コヒオドシが乱舞していて、言葉に言いつくせない経験を味わった。

 高校、大学、社会人の始めの頃までのブランクの後、甲虫類のすばらしさをカミキリムシの中に見出し、更に途方もなく大きいジャンルの甲虫の森に入り込み、なお未だその探求が現在も続いていて今日に至っている。

 ちゃっきりむし No.196 (2018年5月)

 シリーズ 昆虫のいた時代C「谷津山から安倍奥へ」 宇式和輝

 待ち遠しかった春がやってきて、スプリング・エフェメラルと呼ばれるチョウたちが愛らしい姿を見せる頃が、心弾む時季であるのは今でも変わらない。春の早かった今年、3月13日に狭山丘陵(東京都武蔵村山市)で早くもコツバメを初見・撮影した折にも、歳を忘れて心躍るものがあった。

 今でもその頃になると、浮かんでくる懐かしい情景がある。静鉄の電車を草薙駅(静岡市清水区) で降りて、まだ両側が田や畑であった中を南に進むと、草薙神社の脇を過ぎる辺りから里山の風情が濃くなる。小さな流れに沿って猶も行くと道がT字になって、直進する細い道は海岸の久能に続き、左折すると日本平の頂上へのハイキングコースとなっていた。分岐してしばらくの間は広い雑木林の道で、明るい林縁や道路脇の林床には春の花も少なくなかった。なかでも気に入っていた花がモミジイチゴの花で、蜜を求めるミヤマセセリがみられたし、時にはコツバメの姿もあったのである。偶然に見つけたこの場所は、当時春のお気に入りのマイポイントなのであった。

 やがて、ゴルフ場建設に伴って閉鎖され、一帯の環境一切が改変されて、お気に入りの場所は消えていった。心にのみ残るマイポイントである。

 もの心ついた頃からの遊び場所であり、最初のマイフィールドでもあった谷津山(静岡市葵区・標高107.9m)では、この2種は見ることのできないチョウたちであった。庵原山地の延長上の残丘である谷津山は、静岡平野のただ中の独立小丘陵である。山裾には照葉樹林を伴う寺院が多く、山体下部は蜜柑畑、上部は茶畑に広く利用され、当時でも纏まった雑木林という植生もなかった。それでもチョウの個体数は少なくなかったが、限られた種だけなのが寂しく思われてならなかった。そうした思いに背中を押されて、龍爪山(標高1051m)などへと行動範囲も広がっていった。

 加えて当時安東本町におられた高橋真弓さんのお宅に、お邪魔させていただいたのは実に大きな踏切板となった。整備された多くのチョウの標本に驚いたが、それ以上に衝撃的なインパクトを受けたものがあった。それは静岡県の白地図にウスバシロチョウ・ギフチョウ・ヒメシロチョウなどの記録地をプロットした"分布図"というものであった。「静岡県ではウスバシロチョウは大きな河川沿いに生息しています。」「ヒメシロチョウは基本的に富士山周辺にしか生息していません。」・・・等々の氏の言葉と解りやすい説明とは、当時中学1年生の筆者に は刺激的であったし、チョウの「分布」・「生息域」という考え方を知った最初となったのである。後で考えてみると、個で動いていた段階から、最新の多くの情報の集積を一気に目の当りにした瞬間なのでもあった。

 ちゃっきりむし No.197 (2018年9月)

 42年前の大法螺 鈴木英文

 1971年8月のこと、高橋真弓氏は南アルプス北岳の大樺沢のヤマガラシからピエリス属の卵を採集した。持ち帰って飼育すると小型で、ちょっと斑紋が変わった夏型のモンシロチョウが羽化した。後日この標本を見た日浦勇氏が「???・・・これはちょっと違う」と言ったとか。

 高橋真弓氏はこの話をあちこちでしたようだが、大した興味を呼ばなかった。たかがモンシロだったからだろう。私はタカオゼミナールのサロン誌「蝶林花山」No.20 (1976.6.11)に「先住モンシロと侵略モンシロ」と題して次のような大法螺の駄文をでっち上げた。

 "日浦氏によると、日本のモンシロは帰化昆虫ないし史前帰化昆虫である公算が大きいと述べている。そしてこれは私の感じではあるが、氏は日本侵入が一回であったと考えておられるようだ。はたしてそうであろうか?そこでまず各地のモンシロ侵入年代をひろってみると、米大陸東岸1860年、米大陸西岸カ州1890年頃(1866年日本から入ったと言われるP.yrekaが記録されている)、ハワイ1898年(米大陸から?)、沖縄本島1925年、奄美大島1927年、ニュージランド1930年、オーストラリア1939年(ニュージランドから?)、タスマニア1940年、台湾1961年頃、とすべて19世紀後半から各地に分布を拡大していったことがわかる。(それ以前には、蝶の研究がそれほど進んでいなかったのかもしれないが、)それにしても、この19世紀後半からの急激な分布拡大は、各地で大量の食用アブラナ科植物が栽培されるようになり、マイグレーションがおこりやすくなったからだと考えられる。

 しかし日本だけは例外であったのだろうか?日浦氏は日本のモンシロが明治以後のキャベツ、ハクサイ等の到来とともに日本に入ったという考えに対しては、江戸時代の画家のスケッチにモンシロがあらわれることを理由に、この考えを否定している。そしてロリッパ属とともに到来した史前帰化昆虫であるという考えを提示している。しかしこの考えにも疑問が生じる。当時マイグレーションをおこすことが可能なほどの食草(栽培アブラナ科をふくめて)が大陸に存在したか?また日本に定着し、分布拡大できるほどのロリッパ属が存在しただろうか?九州に定着したタテハモドキのように、かなり多量の食草が存在するようにならなければ、定着できないのではないか。

 そこで考えられるのは、栽培アブラナ科とともに渡来(明治以後)したモンシロと、地質時代から日本に土着していたモンシロという二段構えの考えである。北岳ではヤマガラシ、本栖湖ではハタザオ、奥只見ではタネツケバナを食しているこれらのモンシロが、日本土着のモンシロの生き残りではないだろうか。本栖湖は別にして、北岳と奥只見では、平地のモンシロとの間にあきらかに分布の断絶があるようだ、つまりその中間に分布の空白地帯があることである。また高地で採集されるモンシロと低地のモンシロとは感じがちがうという意見もある。それでは以前は低地にもいたと思われる土着のモンシロはどうなったか?これらはのちに栽培アブラナ科とともに侵入して来た圧倒的繁殖力を持つ新参のモンシロの群にのみこまれてしまったのではなかろうか。

 次に亜種名であるが、日本産をクルキボラとし、アジア大陸のオリエンタリスと区別するところは、ほとんどの図鑑で一致している。日浦氏は、"アジアのものはすべて同一亜種にふくめてよいと考えている。"という。日浦氏はそれ以上述べていないが、この考えにしたがうと、クルキボラ1836年、オリエンタリス1887年の記載であるので、アジアのものはすべてクルキボラということになる。(白水氏は台湾産もクルキボラとしているが、日浦氏と同じに考えてか?日本から侵入したと考えてか?)

 そこで"モンシロ複数回侵入説"ではどうなるか、現在平地にいるモンシロは明治以後のものであるとすると、1836年記載のクルキボラは日本土着のモンシロ、現在高地に分布し、野生アブラナ科を食するものをさすのではないか、そして明治以後侵入したものはオリエンタリスではなかろうか、と考えるのである。"

 今読み直してみるとお恥ずかしい限りであるが、後半の亜種名云々の部分以外は、まあそうかもしれないと思われるところもある。複数回侵入説と書いたが、生物地理学では多重侵入ということを後で知った。40年前はDNAの解析など難しかったが、今なら可能であろう。かつて日浦勇氏が「プロは法螺を吹いたらあかん、けどアマチュアは100の法螺のうち一つが本当になったら素晴らしいことや」とおっしゃっていたのを思い出す。私は100も法螺は吹いていないが、まだ一つも本当になっていない。

 今年発行された「2018山梨県レッドデータブック」には、モンシロチョウ南アルプス高地個体群として、南アルプスの高地帯(現在知られる生息地は、北岳大樺沢と仙丈岳大仙丈沢の標高約1800〜2400mの地域)の限られた狭い地域にしかみられない、年1回ヤマガラシを主な食草として生活していると考えられる個体群が存在する。との記述があった。

 南アルプスだけではないだろう、中部山岳地帯の高地帯にも生息する可能性がある。栽培アブラナ科の普及が本州より遅れていたと思われる、北海道の高地帯も調べる必要がありそうだ。

 42年前の大法螺は本当になるだろうか。

 ちゃっきりむし No.198 (2018年12月発行)

 虫探しの裏技は忘れものの神様から 平井剛夫

 幼い頃からながいことつきあってくれている友人からよくいわれたものである。「おめえって、どこへ行っても、いつもなんかごそごそさがしもんしてんなあ」。そうなんだ。お目当ての虫ではなく、ときに鉛筆であったり、ついさっきかぶっていた帽子だったり、カバンだったり、定番の傘だったり、さがしもんの品ときたら、あげてもあげてもきりがない。

 定年を迎えて、静岡に戻ることになり、最後の職場のあったつくば市から引っ越し荷物を送った。収納されたトラックから家にうず高く積んだ段ボール箱は、すぐに必要とする分だけを少しずつ開けることはできたが、片付いた段ボールはなんども高く積まれていった。なんども繰り返された引っ越し生活も、今回は終の棲家とするつもりなので、マイペースで荷ほどきは進めていくつもりでいた。

 引っ越した翌月タイに、虫探しの旅に加わることになっていた。海外へ出るとなると、まずもって必要なのはパスポートである。ところが、ない!!入れてあったはずの机の引き出し用の段ボールに入っていない。すでに出発までのひと月を切っていた。机の周辺のものを詰めた段ボールは、まだ、いくつも未開封だったので、そのあたりを片っ端から開けることにした。しかし、出てこないのである。このダンボールに入れておいたはずなんだがと、あせると余計、あーでもない、こーでもない、可能性のあるイメージだけが固定化されて、同じところを、なんども繰り返してさがすことにどうどうめぐりとなる。見つからないまま、数日が過ぎた。横でみていたカミさんが、出てこないことに、シビレを切らし、「再発行してもらったら」の声に押されて、区の旅券センターの窓口にかけつけた。 再発行旅券も間に合って、仲間とともに、虫探しの旅を楽しむことができた。

 うせものさがしの基本は、まず第一に気持ちに余裕をもつことである。多くのばあい、あせってさがすことが多い。早く見つけなくてはと、気ばかり先に立ってしまうものである。

 忘れられない、忘れ物のはなしをしておこう。つくばでの研究所の仕事も、現役では終わろうとしていた頃であった。当時、これで、研究者としての公務員生活も終わりに近づいたし、思えば、三十有余年の仕上げというようなものになるのかなと思っていた。

 たまたま宮古島に発生したケブカアカチャコガネというコガネムシがどうしてサトウキビの害虫になってしまったのか、というテーマとして取り上げたため、このコガネムシの発生時である春先を中心にして、つくばと沖縄を行き来していた。このコガネムシは、沖縄でも、沖縄本島には棲んでいなくて、いわゆる先島の、石垣島、西表島、それに宮古島が、知られた分布域なのである。それぞれの分布地域での発生時期、発生場所、それぞれの形態変異などについての違いを調べるため、現地へと足しげく通うことになった。沖縄には、離島というすばらしい場所では、訪れる島ごとの微妙なおもむきのちがいを味わうことができる。春先の島めぐりという楽しさを体験することになって、職場の者を、うらやませてしまったようだ。この虫は、沖縄とはいうものの、3月から4月のごく数週間にしか成虫の発生時期がない。むかしから、昆虫愛好家の間では、石垣島で極まれにみられる珍しいコガネムシとして知られていた。

 つくばで1年ものあいだ幼虫を飼育して得られた交尾をしてないメスの成虫を、いわゆるおとりにつかって、オスをおびきよせようとして、捕獲用のワナを沖縄県農業試験場宮古支場から、石垣島へと自分の手で機内荷物として空輸した。朝、一番で、西表島へ向かう離島桟橋へとレンタカー会社に荷物ごと運んでもらうことにした。夕闇せまる30分という時間にしか飛翔しないというきわめて特殊なこのコガネムシをなんとしても生かしたままで捕まえたいという気持ちが先に立っていた。

 昨夜は、たまたま出張で訪れていた沖縄本島の友人との再会に盛り上がり、深酒してしまったのが、このドジ事件の伏線にある。レンタカー会社のスタッフが、送り届けてくれた、2種類のトラップを詰めた段ボール2つ、着替えや得られたサンプルをいれるための容器、そして寒さ対策の着替えの入ったバッグ、を船内に収納した。

 高速艇は、予定通り、大原港へとめざして進んだ。西表島の島のかたちがはっきりする頃、大事な捕虫網を入れた竿袋がないことに気付いた。こういうとき、携帯電話は便利である。すかさず、レンタカー会社が受けてくれ、「次の便で載せます。大原港で受け取ってください」。これで、まずは、今夜からの採集作業に間に合うことになった。あとは、港で次の便の到着を待てばいいだけである。

 竿袋を渡してくれたお兄ちゃんは、「島に釣りに来て、釣り竿を忘れてきたひとはまずいないなあ」のひとこと。「ありがとう」のことばをのみこんでしまった。絶句である。かえすことばがなかった。

 いうまでもなく、竿袋には捕虫網の柄、叩き網の枠、叩き棒のスキーのストック、だけど魚を釣るための釣り竿は1本も入っていないのであるが、だれがどうみても、釣り人の必須の竿入れのための袋である。

 まさか、こんなところに見つかりっこない、いうところをまずさがすのが、意外とさがしものが見つかることにつながる糸口を見つけることが多い。つぎには、次第にここならばとさがす範囲をせばめてゆく。時には、さがす作業を中断させ、さがす気力をゼロにすることも大事である。あせる気を鎮め、平常心に戻すためにも必要に思える。

 まずは、これはという虫、その最初の一匹をみつけること、これが大切である。意外と、つぎの2ひき目も、すぐにみつかることが多い。このことは、珍品をみつける名人も同意してくれている。

 忘れもの迷人は、虫さがしが上手になるものということをおわかりいただけただろうか。虫探しを心掛けておられる虫屋さんの虫さがしのお役にたてたら幸いである。