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<Web ちゃっきりむし 2022年 No.211-214>

● 目 次
 平井剛夫 ルソン島・マッキリン山に昆虫を求めて(1)(No.211)
 平井剛夫 ルソン島・マッキリン山に昆虫を求めて(2)(No.212)
 平井剛夫 ルソン島・マッキリン山に昆虫を求めて(3)(No.213-1)
 清 邦彦 シリーズ 昆虫のいた時代N 富士宮市営舞々木墓地(No.213-2)
 高橋真弓 シリーズ 昆虫のいた時代O 山梨県四尾連湖とその周辺山地の想い出(No.214-1)
 清 邦彦 シリーズ 昆虫のいた時代P ミヤマシジミのいた頃(No.214-2)

 ちゃっきりむし No.211 (2022年2月)

 ルソン島・マッキリン山に昆虫を求めて(1) 平井剛夫

 マッキリン山頂をめがける五人が集まった。集合場所はフィリピン大学林学部の本部である。マッキリン山はフィリピンのルソン島にあって標高千百四十四メートル、フィリピン大学のキャンパスのあるロスバニオスの後方にそびえている山である。農水省熱帯農業研究センター(現在、独立行政法人国際農林水産業研究センター)の派遣職員として一九八二年から二年間家族ととも過ごした大学の宿舎がその麓の一角にあった。午前六時少し前、今回の登山のリーダーの境博成さん(JICA派遣専門家)が我が家に姿を見せた。まだ、あたりは暗い。相変わらず時間には厳格な方である。時間についてもキチッとした方であると言ったほうが当たっている。境さんとはロスバニオスで着任直後から帰国直前までの間大変親しく家族ぐるみのお付合いをしていただいた。

 熱帯の朝は日本の夏の朝のことを考えると始まるのが意外に遅い。大体、昼間は朝六時から夕方六時までほぼ十二時間であると頭にあるのだが、慣れるまではなかなか納得できなかった。それに、ぼんやり朝方、ぼんやり夕方というのがない。極端にいうならば、夜明け即昼間、日暮れ即夜ということになってしまう。かの有名な「種の起源」を世に出し生物の進化を論じたダーウィンと進化の説を争ったウォーレスが著わした「熱帯の景観」(谷田専治訳、創元社、一九四二年)には熱帯の黄昏が短いことについてつぎのように書かれてある。「赤道地帯が温帯及び極地と著しく違ふ現象の一つは、黄昏が短く、したがって昼から夜、夜から昼への移り変わりが急激なことである。これは太陽が斜でなく垂直に地平線下に落ちることによるのであるから、ヨーロッパの真夏の黄昏と熱帯の夏の黄昏を比較するとこの相違は最も著しい」。「旅行者は普通、熱帯の黄昏の短いことを誇張して、時には、本を読んでいて太陽がかくれた瞬間頁をめくると、その次の頁をめくるときにはもう暗くて読めなくなるという。普通の本で、普通に読む人ならば、こんなことは嘘である」。後段の話しは、つい最近までウォーレスの体験談かと思っていたのであるが、改めて読み返してみて言い伝えだったことに気づいたが、話半分としてもたいそう面白かった。

 乾季のちょうど真ん中にあたるもうすこしで五月になろうとしたとき、境さんがこのマッキリン山の登山を企画してくださった。この乾季の時期にしぼったわけは主に二つあった。雨季の最中は頂上付近の急な山道がとても滑りやすくなること、それに雨季ではヒルの活動が盛んで山道でも執拗な攻撃を受けるためであった。なんでも、顔についたヒルを払いのけて空中に放ったところ、もういちど顔をめがけて襲ってくると言う。まさかとは思ったけど、山頂あたりにヒルがたくさんいるということであろう。

 山行きの計画を境さんにもち掛けたこちらとしてのホンネはあこがれのマッキリン山に登って頂上付近の雲霧林に棲息する虫たちをこの目で確かめたかったからであった。自分の卒業した母校の東京農工大学には石井悌先生がおられたが、昭和三年(一九二八年)から三年間、農林省からの要請で稲の害虫の天敵の調査のためにインドや南洋の各地を訪れ、その様子について「南方昆蟲紀行」(一九四二年、大和書店)にエスプリ豊かなさし絵の載ったくわしい解説がついて大変楽しく書かれている。先生はフィリピンに一年程滞在されており、自分がフィリピンに訪れることになったときなんどもこの著書を読み返したものであった。「世界でも無類な昆蟲の豊富な山で、嘗てこの農科大學々長で且つ昆蟲學者であったベーカー博士は、昆蟲學者のパラダイスだと折紙をつけた山である」と書かれてあるそのマッキリン山の頂に立ちたいという思いにかられていたからである。その当時の自分の日記(一九八三年四月三十日)をひも解きながら二十数年も前の紀行をつづることにしよう。

 マッキリン山の中腹あたりにきたところで夜が明けようとしていた。約束の時間におよそ十分遅れて三人のフィリピンの若者が集合場所に登場した。バッディ・マベサ(園芸学部)、トト・ラピタン(林学部)ノッギー・パへ(CEARCA)のフィリピン大学の若い地元のガイドたちである。山道の駐車できるところをと、一行を乗せた我々の二台の車はマッキリン山の山道を上がった。グツグツと大きなドロの泡が出てくる泥泉があることで有名なマッド・スプリング(Mud spring)あたりにはなんども行ったことがあるので、その入り口あたりだろうと思っていたのだが、トトは自分の学部である林学部の試験場を駐車する場所として指示した。マッド・スプリングの入り口より少し手前であったが、ともかく地元の学生としてこのあたりの地理をよく知っている男の指定場所として従うことにした。そこで自分の家で雇っているヤードボーイと今日だけ臨時に雇ったヤードボーイの知り合いに降りてもらい、われわれが山に登っている間われわれの車を二人でガードしてもらうことにした。

 山道を辿る。その間、マダラチョウやジャノメチョウ類を見るが、努めて一同のペースに合わせる。道草食って虫などを採ろうという人は自分以外に誰もいない。飛んでいる虫や這っている虫を目にしてもゆっくり採れないというのは虫屋としては大変つらいところであるが、このあたりはなんども来ていている場所なのでまたくることもあろうと我慢することにする。そこで、自動車の通るような広さの山道を辿り、ペースをどんどん上げる。

 見上げるような大きなサイズのヘゴシダや野生のバナナが葉陰を落とす山道を小一時間登ると、地熱発電の工事現場に着いた。われわれが滞在しているロスバニオスという街は、その名前も定冠詞のロスと温泉という意味のバヌスというスペイン語から由来しているように、タール湖の廻りにはいくつも温かい温泉が湧き出ておりリゾートの町としても有名な場所である。ここマッキリン山の中腹には先に述べたようにお湯がグツグツ湧き出ている泥泉(マッド・スプリング)があって観光名所になっている。地熱による発電所を作ろうという気持ちはわかろうというものである。しかし、フィリピンのあちこちでよくみるように、ここでも工事を途中にして資材もそのまま放置してある。なんとも勿体無い限りである。ボーリングをしたが、蒸気がでなかったため工事を中断したということのようであった。(つづく)

 ちゃっきりむし No.212 (2022年5月)

 ルソン島・マッキリン山に昆虫を求めて(2) 平井剛夫

 少しの休憩をとって出発である。その地点ですでにひとつのピークにたどり着いたということである。意外に早くピークに到達したためいささか気が抜けた思いであったが、メインのピークはさらにもう一時間ということであった。ここからは車の通ることのできる道から、グッと狭くなった山道に入る。つる性のラタンが多くなっており、ヘゴシダも多い。ラタンには気をつけないとその鋭い刺にやられてしまう。うっかりラタンのつるに気づかなくてしんどい思いをしたものである。なんどくっついた捕虫網をはずすのに手をやいたことか。

 ここのところ、リュックを背負っての山行きは久しくしていなかった。日帰りの登山のため、リュックに入っているものときたら、食料、水、スナック、それに万が一を考えての折りたたみ傘、着替え一丁といったところでどう考えても重装備では決してない。それに吊り下げバッグとして百ミリマクロレンズつきカメラが一丁入っている。このバッグは帯広の米軍衣料の店で手に入れたもので、日高山脈にもずっとお供してくれている思い出深い品物である。これだけの重量の荷ですこぶる快調であった。

 山道に入って間もなく林の脇に生えている草の葉の上に止まっている甲虫がいる。ひと目でそれがメダカハンミョウのなかまであることがわかった。よくみるとあちこちの葉っぱの上に止まっている。狩りの名手であるハンミョウはだいたい大きな複眼をもっているのであるが。さらに目が大きいことを意味するメダカと名前がついている。

 後にこの種類は「図説世界の昆虫2東南アジア編U(阪口浩平、一九八一年)によると、どうもクロホシメダカハンミョウのようである。体色は全体に飴色で、胸と頭は黒く、翅には二つの黒色のホシがある。しかし、のようであるというのは、マッキリン山で採れたのは、翅についているホシのかたちがちがうこと、前胸の体色に微妙なちがいがあることや、近隣のレイテ、サマール、ミンダナオに分布していることが記されているが、マッキリン山のあるルソン島に分布していることは示されてなかったことから、近似種ではあるけど別種であるかもしれない。また、この図説によると「このハンミョウは、日陰の多い森林中で葉から葉へと軽妙に飛び回る」と書かれてあり、ここでも同様な習性を確かめることができたが、「捕らえられるとからだから一種のひじょうに心地よい芳香を発する」ということであり、この芳香がどんな意味をもっているのか大変興味をおぼえたが、高ぶっていたためであろうか、そのときは香りを確かめることができなかった。日本のふつうのハンミョウに較べるとサイズはぐっと小さめであるが、地面でなくて葉の上にいるのが面白い。熱帯に特有の木や葉の上にいる種類と思い、懸命に追いかけて 掬った。屋久島や奄美にはシロスジメダカハンミョウというこのメダカハンミョウと同じような木の葉の上にいるハンミョウの仲間がいる。熱帯というところの虫の数の多さがこのような食性をもつ捕食者のニッチェをあたえているのであろう。

 この原稿を書き出してから、何度もタイに虫採りの旅を楽しんでいる方々との集まりに来られた神奈川昆虫同好会の秋山秀雄さんがこのハンミョウの名前を教えて下さった。和名はついてないようだったが、クロホシメダカハンミョウと同じテラテス属でセンペリ(T. senperi)という種であった。このハンミョウはルソン島のほかミンドロ島、ネグロス島に分布しているそうで、このセンペリによく似ている種(T. pseudosenperi)がルソン島の北部に分布していると言うことをおしえてくださった。

 山行きを続けよう。一行はもう先の方に行ってしまっている。このあたりまで上がってくると、山道はさらにせばまり、路傍の草の仲間も、素人目にもそれが人間について運ばれた植物ではないことが分る。つまり人間臭さから離れてほんものの自然に入り込んできたのである。標高八百メートルくらいからであろうか、この山の植物相が急に変る。残念ながら樹種がわからない。それにちょいと憶えようにも余りに種類が多すぎる。それより、ここの樹木にはコケがびっしりとついている。麓とちがって乾期の最中だというのに林床はしっとり湿っている。明らかに降雨量のちがいのためである。マッキリン山の山頂にはいつも雲がかかっている。その雲が雨を降らし、林床を湿らせているのである。カラカラの上天気が続いている平地とはまったく対照的である。

 後で聞いたのであるが、マッキリン山の頂上付近にはムシトリスミレやサラセニアといった食虫植物が分布していると言うことであった。じゅうぶんな時間をかけて観察していたら、さぞかし面白い植物も見ることができたであろう。山道の傾斜が急になって、ムシ採りはさておいて山登りに専念しなくてはならない。日頃のトレーニングの不足、体力の無さがぐっと感じられる。しかし、ここにきていまさらなにをいうかである。ここはじっと我慢の大人である。したたる汗をぬぐいながら標高をかせぐ。しばらくしたら、終始後続のアンカー役をキープしていたこちらがついに先に行かなくてはならなくなった。ずんぐりむっくりのペヘー君、ひょろっと図体のでかいバディ君の二人はバテだした。小休止のたび、むき出しのガラス瓶からグビグビと大量の水を飲んでいたのが気になっていた。大丈夫かなと心配していたが、四、五メートルの壁で、這い回っている木の根っこを頼りに登らねばならぬところへきたところでついにダウン。三十分ほど休んでゆくと言うのである。傍によって来たトト君がバテた二人をタカログ語で叱咤激励しているようだ。つねに先頭をキープしていた境さんは、もう少しで頂であることをすでに知っての上と合点したためであろうか、かなりのピッチで先を急いだ。こちらも、ダウンの二人組をそこに残して、トト君と先へと進むことにした。

 ポッと抜けたと言う感じで頂に到着した。頂上に立っても眺望はできない。すでにゴールインしていた二人はさらに頂上にある木に上り眺望を楽しんでいた。ぐるり、木々に囲まれているのである。頂きは二十メートル四方程の小さなオープンランドで、そこだけ木々を切り払われていた。多くの人が訪れているとみえて下草が刈り払われており、小さな庭という感じである。頂上の木にあがった境さんの「いい眺めですよ」ということばにはグッときたが、先ずは虫採りである。熱帯の千百十メートルのいただきにとうとう立ったという感激を味わう間もなく、近くの小さな花をつけている木にその花をめがけてネットをかけてゆすぶってみた。小さなコメツキがいくつか入っていた。素早く吸虫管で小さな虫を吸いあげる。熱帯ではちょっと気温が上がるとネットから飛び出すので採る方も忙しい。草の上をブーンと飛ぶ小さなコガネムシをつかまえた。マメコガネをまっくろにさせた感じだ。おそらく同じ属に入るものであろう。真っ黒な上翅に赤橙色の斑紋がある。シジミチョウの類が梢の上を飛んでいるが、かついでいったつなぎ竿でもとても届かない。チョウチョ屋ならなんとしても狙うところであろうが、あきらめることにした。ハムシの類が陽光の中を飛んでいる。牧草害虫のウリハムシモドキに似ている。ここでもいろんな甲虫類が風に吹き上げられていて、小さな頂ではあるが虫屋にはとても大事なところである。こうして虫採りを楽しめるのも吹き上げのためのいい時間帯に頂きにたどり着いたお陰である。

 十時半、およそ一時間遅れて後続の仲間も到着した。眺望を楽しんでいた境さんがいつになっても上がって来ない学生たちに業を煮やしたのか、二人を迎えに降りて行ったのである。そして、二人分のリュックを担いで頂上まで上がってきたのを見たときには、自分よりずっと先輩格の境さんのタフさに驚いたが、空身で先生に続いてふたりの学生は上がってきた。さして悪いことをしたような顔もしてないのにはこちらは驚くよりも恐れいってしまった。やっと到着したわいという感じであった。そんな二人の様を見た境先生は間髪入れず、「頂上はそこじゃあない、あの木の上だ!」と、木のうえにさらに上らねばダメだと木の方向を示して最後の気合を入れる。一人はなんとか、先生のいわれる木に上って行ったが、もう一人の方は上りかけて断念した。木に上るだけのエネルギーはすでに使い果たしてしまったというところである。

 十一時、山の昼飯は早いのが相場である。リュックからカミサンの手作りのおにぎりを出し、添えられたフライドチキンをほうばる。フィリピンに来て、半年、ロスバニオスの街からいつも見上げたマッキリン山の頂上で昼飯を食べるのは格別である。境さんが、メタノールランプでお湯を沸かしてスープを作ってくださった。程良い塩加減が汗を流した身には実に美味しい。フィリピン・ガイド達はバナナの葉でくるんだお弁当を出す。白いご飯と魚の焼いたものが入っている。こちらがフライドチキンをつまむようにまわしたら、向こうから塩漬けのゆで卵はどうですかとまわされてきた。度派手な紅色をしたガチョウの卵で、塩水に浸してからゆでるのだそうである。この卵はトマトをつぶしてまぜて食べるのが美味しい食べ方のようである。うれしいことに境さんがコーヒーをいれてくださった。山の上での食後に一杯のコーヒーは大変マサラップ(美味しい)である。   (つづく)

 ちゃっきりむし No.213 (2022年9月)

 ルソン島・マッキリン山に昆虫を求めて(3) 平井剛夫

 私は1970年まで静岡平野にある谷津山の南側の春日町(現在の葵区春日)で過ごした.1950年代から60年代,小学生の男の子の遊びの一つは虫取りで,当時の春日町には田んぼや畑が残っていて,オケラ,オタマジャクシやザリガニを採って遊んだ.空地もあって秋にはキチキチと音をたてて飛ぶショウリョウバッタのオスを追った.谷津山ではセミ採りをした.釣具店で売っている直径10pほどの小さな網を釣り竿の先端に付けたものがセミ採りの道具だった.また,山肌が出た5メートルほどの高さの崖があり,そこを上る冒険もした.子供たちの遊び場に囲まれた場所だった.高校に入ってチョウの採集を始めると,谷津山はチョウの採集場所となった.私の家は谷津山とは直線距離で100mほどのところだったので,谷津山で発生したとみられるアゲハ類の他,サトキマダラヒカゲ,ゴマダラチョウ,キタテハなども飛んできていた.

 就職し1980年に三島市芙蓉台に移り住んだ時,静岡市谷津山周辺とは異なる環境に魅力を感じた.谷津山には無かったクヌギ・コナラの雑木林が広がり,平地性ミドリシジミ類などのチョウが見つかるとの期待が膨らんだ.実際に家から最も近い雑木林の中に入ってみると踏み分け道が通じていた.クヌギ等の樹液に集まるカブトムシ,クワガタムシを採るために人が入っている証拠だった.町内の街灯の下では朝早くにカブトムシが転がっていることもあった.子供の頃には見ることがなかったカブトムシ,クワガタムシなどが身近な存在となった.当時は勤務時間が16:00までだったので,平地性ミドリシジミ類が発生する6月頃は2時間近く採集に歩き回る時間があった.急いで帰宅し散歩道を歩くと,ミズイロオナガシジミ、ウラナミアカシジミがどこでも見られた.クリの花をたたくとオオミドリシジミ、アカシジミも飛び出した.少ないながら笹原もあり,オオチャバネセセリは成虫だけでなく,幼虫の巣も容易に見つかった.また,谷津山は静岡平野の中で孤立していたが,芙蓉台は高台にあり箱根外輪山と繋がっている.標高の高いところで発生したチョウが移動してくることがあり,ヒメキマダラヒカゲやミドリヒョウモン,メスグロヒョウモンなどの大型のヒョウモン類が記録でき,庭に植えたアワブキではアオバセセリが発生したこともある.町内にはまだ家が建っていない区画が残っていてススキが生い茂り,現在では芙蓉台内では見られなくなったジャノメチョウが飛んでいた.その他の記憶に残っている昆虫では,庭のイチジクを切る原因となったキボシカミキリの発生があり,ナガサキアゲハの幼虫を初めて見つけた庭のユズは根元をカミキリムシの幼虫が一回りして枯れてしまった.メダカを飼っていた時には衣装ケースを利用した水槽にイトトンボが発生したこともある.引っ越した頃は夕方庭仕事をしているとブヨ(ブユ)に悩ませられた.近くに発生可能なきれいな流れがあったのだろう.敷地の境界は自然石が積み上げられていて,石の隙間に逃げ込むアオダイショウを見たこともある.人の手が程よく介在したいわゆる里山に取り囲まれたところで,住宅地である芙蓉台の中にも周囲の里山環境の影響が現れていた.

 2020年、芙蓉台に移り住んでから40年の節目となったので,区切りとしてこの間にチョウを取り巻く環境がどう変わったか調べることにした.この40年の間に大きな環境変化が起き,昆虫類が少なくなったと感じていた.芙蓉台よりも少し標高が高い場所に1000戸規模の大きな住宅団地ができたのである.当然ながら工事用道路が必要になるので,三島市と裾野市をつなぐ県道から住宅団地までの道路が建設された.道路ができて便が良くなると道路沿いの開発が進んで,雑木林は畑に変わっていった.農家の畑だけではなく,家庭菜園になる場所も出てきた.かつてのクヌギ・コナラの雑木が残ったのは耕作地に適さない谷筋や急斜面で,これらの雑木林は今や樹高が10mを超えるほどの林になっている.管理された雑木林はなくなり,林床には笹などが生い茂ってとても入り込むことなどできない状態である.更に,芙蓉台の住人は年齢層が高くなってカブトムシなどを求めて雑木林に入り込む子供達もいなくなり,踏み分け道はなくなった.また、散歩道として残っている所も高くなった樹木が上空を覆っている.このような環境変化の結果,平地性ミドリシジミ類は大幅に減少した.ウラナミアカシジミは見られなくなり,アカシジミ,オオミドリシジミも滅多に見られなくなった.健在なのはミズイロオナガシジミで,少数であるが毎年確実に見ることができる.ツマグロキチョウ,オオチャバネセセリ(注;2021年6月15日三島市徳倉で採集)も気が付いた時には消えていた.

 1980〜90年頃には55種類のチョウを記録しているが,ここ3年の観察では10種類近くが見られなくなっている.イチモンジチョウ,ミヤマセセリなどは記録できたものの滅多に見られないほどに少なくなった.一方で新たに見られるようになったチョウもあり,南方系のナガサキアゲハ,ムラサキツバメ,ツマグロヒョウモンは我が家の庭でも発生する常連のチョウとなった.結果としては,遇産種を除くとチョウの種類数としては以前とあまり変わっていない.チョウ以外の昆虫では,鳴き声の大きなアオマツムシ,庭のタラノキを集団で食害するアオドウガネなどが新たに住み着くようになった.捕虫網を持って歩いていると出会った人から何を採っているか聞かれる.チョウと答えると「チョウ.最近見なくなったね」と返ってくることが多い.一般の人もチョウが少なくなったと感じているようだ.

 庭で見られる昆虫に対しては基本的に殺虫剤を使わず,そのままにしておくようにしているのでいろいろな昆虫が見られるが,中には好ましくない昆虫もいる.それらについても述べておこう.芙蓉台は分譲時にツバキとツツジが植えられていて,今でも庭木として残っている.ツバキ,サザンカにはチャドクガが発生する.私はチャドクガには弱く,医者にかかるほど酷くかぶれたことが何回かあるため,幼虫の集団を見つけると若齢幼虫の集団のうちに枝ごと処理する.また,プラムが時々丸坊主になることがある.モンクロシャチホコの幼虫によるもので,チャドクガのようにかぶれることはないが,あの黒い幼虫の集団は気持ちのいいものではない.チャドクガと同様集団の時に処理している.ツツジ,サツキにはルリチュウレンジハバチが発生する.この幼虫も集団でツツジの葉を食べ,気が付いた時には枝先が丸坊主になる.卵の段階で見つけて,その段階で退治している.

 現在の三島市芙蓉台周辺は引っ越してきたときに感激したような環境ではなくなり,見られなくなってしまった昆虫もあるが,市街地に比べればまだ多くの昆虫が見られる.メジロ,シジュウカラ,ウグイス,コジュケイなどの鳥の鳴き声も身近に聞くことができ,まだまだ自然が豊かである.40年前に比べると残念な状態になったが,せめて今の環境が残ってほしいと思う.

 シリーズ 昆虫のいた時代N 富士宮市営舞々木墓地 清 邦彦

 「燕岳に登る」という文章を、私は1945年の秋、当時の国民学校(現在の小学校)5年のときに国語の時間に学んだ記憶がある。北アルプスの燕(つばくろ)岳から蓮華・鷲羽・水晶・五郎と連なる高山地帯の風景描写があり、私はこれらの山岳にどんな"高山蝶"が棲んでいるのか想像を回らせたものである。

 高校時代に、ほぼ富士川を境として、静岡県の蝶類分布が東西で大きく異なることに気づいていた私にとって、南アルプスに登って蝶を採集・調査することは大きな夢であった。

その夢が実現したのは、静岡大学に入学した1953年夏のことであった。そして私は20年間以上にわたって、毎年のように南アルプスへ採集・調査に出かけ、その成果を「駿河の昆虫」に、"大井川水源地方蝶類分布調査報告"として1986年発行、135号の第23報まで発表している。

 南アルプスの調査で忘れられないことは、1963年1月、当時南アルプス各地を踏破し、ベニヒカゲなど"高山蝶"の詳細な記録を残された石川由三さんが23歳の若さで遭難死されたことである。同氏の調査報告は「駿河の昆虫」にしばしば発表され、特に43号の遺稿集はまさに歴史的光彩を放っているといえよう。改めて同氏のご冥福をお祈りするしだいである。

   その後、私は南アルプスの"高山蝶"の起源を求めて海外に出かけ、極東ロシアの沿海州や東シベリアのマガダン、ヴェルホヤンスク、そしてモンゴル、キルギスなどでの採集・調査を体験し、特に東アジアでの日本産"高山蝶類"の生物地理学的な位置づけを試みている。

 つぎに、ことし87才となった私の若い時代に体験した南アルプスでの蝶類調査の想い出を4項目にわたって紹介したいと思う。近年の気候変化に伴う蝶相変化を考えるために何らかのお役に立てばさいわいである。

1.転付峠を越えて南アルプスへ
 1953年8月7日から10日まで、3泊4日の日程で、私は当時の静岡生物同好会の採集調査会に参加し、あこがれの南アルプスを訪れることになった。植物の分類学・生物地理学をご専門とされる杉本順一先生をはじめ、十数名が参加した。そのうち、当時の静岡昆虫同好会の会員としては、私のほか、高校生の朝比奈章悟、橋爪一敏、渡辺定弘さんらがそのメンバーとなった。

 転付峠は静岡県と山梨県との境界にある標高ほぼ2050mほどの峠で、山梨県側の新倉の500mから標高差1500mを越える高さにある。そして静岡県側の標高1450mの位置にある二軒小屋に下だるのである。その峠道はよく整備され、ところどころに休憩所に木で組んだベンチが置かれていた。ジグザグの登りは傾度が好適で疲れを感じさせなかった。このような昔の山道に比較して、その後の「静岡国体」前後につけられた山道は、"登山はスポーツである"という思想をもとにできているので、"効率万能"の急登が多く、山道としての価値が疑われるものが多い。

 峠を越えて二軒小屋で一泊、その翌日の8月8日、大井川上流西俣を往復した。悪沢渡、蛇抜沢などを過ぎてさらに中俣出合いから小西俣あたりまで足をのばした。まず驚いたことは、"高山蝶"ミヤマシロチョウの群飛であった。青紫色のクガイソウ、白色のミヤマイボタなどの花に群集し、緩やかに飛ぶ"高山蝶"との初めての出会いに深い感動を覚えたものである。標高ほぼ1600mの蛇抜沢あたりから"高山蝶"ベニヒカゲが姿を現わし、さらに1700mの新蛇抜沢で"高山蝶"クモマベニヒカゲが出現した。

 こうして同じ日に3種の"高山蝶"に出会うことができたのは本当にしあわせであった。そして転付峠を境とした蝶相の鮮やかな対比に驚いたものである。

2.荒川三山と2種のベニヒカゲ
 転付峠から残雪をいただく南アルプスの高山帯を初めて眺めた1953年から5年を経過した1958年、私は当時24歳で清水区(当時は清水市)のある高校に勤務していた。

 この年の8月3日から6日まで、3泊4日で、5回目となる転付峠越えで二軒小屋に入り、そこから千枚岳〈2879m〉への急登を経て、日本第5位の高峰・荒川東岳〈3141m〉から荒川小屋に降りてここで一泊、翌日同じコースで二軒小屋まで往復した。このときに参加したのは高校生の福知治、三浦位通、前島規雄さんらであった。転付峠や千枚岳などの苦しい登りは"60歩登法"と名づけた、ゆっくり60歩登って3呼吸、25分登って5分間休憩、というぐあいに"がんこなドイツ人"のようにこれをくり返すと、疲労が少なく、意外に早く目的地に到達することができた。

 千枚岳に近づくと、オオシラビソなどから成るうっそうとした亜高山性針葉樹林帯がダケカンバの疎林となり、その疎林の間やその周辺にミヤマトリカブト、ミヤマシシウド、ハンゴンソウ、ミヤマホソエノアザミなどの高茎草本から成る"お花畑"が現われ、このような森林限界の高茎草原はクモマベニヒカゲのおもな生息地となっていた。他の一種ベニヒカゲもここに生息していた。

 荒川東岳から中岳にかけては、登山道が山腹を巻くように荒川小屋まで続いている。この乾燥した急斜面にはイネ科・カヤツリグサ科を主体とした草原が広がり、ここにはもっぱらベニヒカゲのみが生息し、キク科のタカネコウリンカの花によく集まる。この花は総苞が黒かっ色で、遠方から見るとベニヒカゲがとまっているようにも見えた。このような典型的な高山草原にはクモマベニヒカゲは生息していない。このような両種の生息地の相違などを「駿河の昆虫」24号、「蝶と蛾」14巻3号などに報告した。

3.亜高山帯の蝶、オオイチモンジ・コヒオドシ・クモマツマキチョウ
 これらの3種は"高山蝶"として知られているがいずれも高山帯には生息せず、おもに亜高山帯に生息する。南アルプスでは北アルプスに比べて個体数が少なく、いずれも"希少種"となっている。

私自身、オオイチモンジとの初めての出会いは、1956年7月27日の午前に西俣の悪沢渡のあたりで1♀を目撃し、同日午後二軒小屋下の大尻沢付近のドロノキの梢高く緩やかに旋回する1♀を目撃したときであった。

 それから9年たった1965年7月28日の朝、東俣の曲輪沢から徳右衛門沢に向かう途中にあった中村組作業所の建物の前に自生したサワグルミの小木の葉上に翅を閉じてとまっている1♀を初めて採集した。その翌年の1966年、こんどは直翅目など昆虫の広い分野に深い知識を持たれる杉本武さんとともに、10年前に1♀を目撃した大尻沢でドロノキの高い梢から降りて小木の上を緩やかに飛ぶ1♀を採集し、この植物の葉の先端に、特殊な食痕とともにこの蝶の1齢幼虫を観察することができた。その写真は保育社の「日本昆虫生態図鑑V〈チョウ編〉」に掲載されている。

 コヒオドシも南アルプス南部では極めてまれな種で、まず1955年8月17日、ベニヒカゲの著名な研究者故木暮翠さんと東俣をさかのぼったとき、路上にとまった1♂を、翌年の1956年7月27日、西俣で1♂を採集している。さらに1961年8月13日、宇式和輝さんと調査した赤石岳北斜面で1♂を採集している。

 クモマツマキチョウはこれらの2種よりも分布が広く、南アルプス周辺の北遠白倉川上流や安倍川上流大谷崩付近に分布していた。私のもっとも印象深かったのは、1966年5月5日、東河内の上流の河原で1♂を採集し、また1969年4月29日、畑薙第一ダムの左岸で1♂を採集したときであった。故石川由三さんは1959年に西俣での多産を報告している。

4.南アルプスの「前衛」
 南アルプスの中でも比較的南側に位置する山々は「南アルプスの前衛」とも呼ばれ、その本体の赤石山脈よりも山道の整備が不十分で、その調査は1966年以後に持ち越された。

 1966年8月5日、私は杉本武さんの協力で中ノ宿から赤崩南側の池の平と呼ばれる水場に一泊し、ここから赤崩上の尾根沿いに青薙山頂上〈2406m〉まで往復した。ほぼ全域コメツガ・シラビソなどから成る常緑針葉樹林に被われているが、ところどころにある小崩壊地上の草原にクモマベニヒカゲとベニヒカゲが見られ、前者が優勢であったが、あと1週間もすれば優劣の関係が逆転したものと思われる。なお8月6日の朝、私はテント場の付近で占有行動中の静岡県では珍しい種とされるジョウザンミドリシジミ1♂を採集している。杉本武さんはこの水場の近くで、カエデの小木からミヤマカラスアゲハの蛹を発見された。

 大無間山は故石川由三さんが1959年9月11日にベニヒカゲを初めて採集された山である。頂上の標高は2329m、全山常緑針葉樹林に被われ、頂上にやぐ ら方式の展望台があった。

 私は1966年8月11日、寸又峡温泉に一泊し、そこから寸又川をさかのぼって山稜にとりつき、さらに大垂沢小屋に一泊して、そこから頂上まで往復した(8月13日)。山道はしっかりつけられていたが風倒木が多く、大変苦労して汁垂小屋跡を過ぎて頂上への登り口に到着した。ここにはアザミ類を含む高茎草原が広がり多数のベニヒカゲが群飛していた。この地点は地理的位置から考えてクモマベニヒカゲは生息していないものと考えられる。

 さいごに青薙山北方にある農鳥山脈の雄峰笊ヶ岳〈2629m〉。1986年、同じ学校に勤務していた伊藤勇夫、小島守先生らとともに、8月15日、所ノ沢小屋付近でのテント泊、翌16日に笊ヶ岳に登った。布引山〈2584m〉に近づくと尾根の小さな草原にクモマベニヒカゲとベニヒカゲが現われ、この2種は大笊(頂上)と小笊の二峰の間に生じた急斜面の高茎草原に群飛していた。

このほか南アルプスには多くの楽しい想い出があり、それらの体験が私の蝶類・生物地理学研究を支えているもののひとつと考えることができる。

 ちゃっきりむし No.214 (2022年12月)

 シリーズ 昆虫のいた時代O 
  山梨県四尾連湖とその周辺山地の想い出 高橋真弓

 1954年.それは私が大学2年に在学していた年である。あれから68年の長い年月が経過していることになる。

 富士高校生物部員であった水谷眞砂子さんのお母様にあたる大森民子先生が山梨県の旧富河村の富河小学校に勤めておられ、私はこの方のお世話でその学校の宿直室に泊めていただき、"蝶類の宝庫"とも呼ばれた四尾連湖方面で蝶類調査を行うことになった。

 当時は学生・生徒の身分でありながら、あらかじめその学校の校長先生宛にその目的を告げてお願いすると宿直室の利用が許可されたまことに良き時代であった。

 こうして私は1951年から1959年にかけて、さらに静岡県内で梅ヶ島(2回)、井川、上井出根原などの小学校宿直室に泊めていただくことができた。まことに恵まれた時代を体験したことになる。

 さてその年の7月17日の早朝、私は静岡駅から東海道本線と身延線とを乗り継いで市川大門駅で下車し、四尾連湖に向かうことになった。そしてこの日と翌日に旧富河村の学校宿直室のお世話になったのである。

 第1日目の7月17日、市川大門駅から四尾連湖に向かって未舗装の狭い自動車道路と山道が続き、その周囲はクヌギを主とする雑木林や明るい草刈り地が続いていた。私はこの道すじで初めて目にする蝶3種を採集した。

 その第一はウラナミジャノメである。この蝶はその道すじの藤田 (とうだ)から四尾連、さらに湖までの峠道の雑木林の草地に見られ、よく気をつけて見ると、近縁の"普通種"ヒメウラナミジャノメに比べて色彩がやや黒っぽく、より速く飛び、跳躍するような飛び方のリズムに幅がある、という印象を受ける。

 この蝶はその後1973年7月15日の旧下部町、現身延町大磯での1♀の目撃記録を最後として、山梨県からは記録がなく、山梨県では絶滅したものと考えられる。

 第二はキマダラモドキである。市川大門駅に近いその南側の雑木林、および清水集落付近で採集することができた。

 一見よく似たキマダラヒカゲ類に比べると、地表により近いところを飛び、クヌギなどの樹幹の低い位置に上向きに静止するのが見られた。

 その後、この蝶は富士川中流地方の雑木林に少ないながら広く分布していることが明らかになり、身延町清子(せいご)あたりがその南限となっている。南アルプスには分布していない。

 三番目はヘリグロチャバネセセリである。この蝶は市川大門駅南方の路傍草地で確認した。その後四尾連湖南方の堀切、網倉方向の草刈り地にも広く分布していることが判明した。富士山麓では主として山梨県側に見られ南アルプスにはほとんど生息していない。

 そのほかの蝶ではクロヒカゲモドキがこの日の行程のほぼ全域の雑木林に広く見られ、今日山梨県下全域でこの蝶が激減している状態からすれば、まさに夢のような世界であった。

 オオムラサキは当時の帯那トンネルの壁面で吸水する個体が見られ、そのほか藤田〜清水の雑木林の上を飛ぶいくつかの個体を目撃した。

 昼食のため立ち寄った四尾連湖畔の民宿水明荘では店主の望月初子さんが、ひとりで訪れた昆虫少年の私を暖かく歓迎して下さり、その後も蝶類調査でこの水明荘に立ち寄るたびに暖かいおもてなしを受けた思い出を忘れることができない。

 この日、この水明荘のわきにあった一本の梅の木のまわりをオオミスジの♀が旋回していた。

 二日目の7月18日、今度は宿泊地を出発して渡し舟で富士川を渡り、身延線の井出駅から八木沢を経て北方へ、佐野川右岸を巻くようにして柿元方面に通じる道路を下佐野あたりまで往復した。

 この一帯は当時からスギ・ヒノキ人工林が広がり、おもなものはクロヒカゲモドキのみであった。このときに採集した1♂の標本は"ふじのくに地球環境史ミュージアム"に保管されているが、その後この地域を含めて、この蝶は山梨県南部一帯からは記録されていない。

 第三日目の7月19日、身延線の甲斐常葉駅から北東に向かって岩欠、和奈場あたりまでの山道を調査した。ここではまたしても長塩付近でウラナミジャノメに出会うことができた(1♀採集)。山梨県の南限記録である。

 その後四尾連湖周辺では、1959年8月29日、市川本町から尾根沿いに四尾連湖、さらに大畠山にかけて、晩夏の炎熱の太陽の下で、草原を飛び交うおびただしいゴマシジミを見たこと、1977年6月19日には680m三角点から堀切峠に下る斜面の草地でアザミ類の花を訪れたヒョウモンモドキ1♀を採集したこと、そしてギフチョウを2004年4月12日に同三角点と、同年4月20日に大畠山頂上で各1♂を採集したことなどが楽しい思い出となっている。

 シリーズ 昆虫のいた時代P ミヤマシジミのいた頃 清 邦彦

 はじめて富士宮市沼久保の河川敷を訪れたのは1963年の3月、大学受験を終えたばかりの高校3年生の故小林國彦さんとだった。目的はコゴメヤナギの木からコムラサキの黒色型、クロコムラサキの越冬幼虫を探すことだった。静岡県東部に住むものにとってクロコムラサキはあこがれの蝶だった。その年の6月、同じ場所を訪れた私はコムラサキの普通型とミヤマシジミを採集した。河川敷の小高くなった場所に広く食餌植物のコマツナギが育ちミヤマシジミが数多く生息していた。その後次第にクズが広がるようになり、1969年8月には見られたが、1974年に訪れた時には生息地はすっかりクズに覆われ、蝶の姿はなかった。今は管理された草地広場となっている。

 1972年9月、保育社の原色日本昆虫生態図鑑Vチョウ編の著者である福田晴夫さん、久保快哉さん、葛谷健さん、故高橋昭さん、故田中蕃さん、若林守男さんが静岡に集まった。著者のひとり高橋真弓さんの案内で静岡市谷津の安倍川支流藁科川の堤防にミヤマシジミの観察に行った。ミヤマシジミが生息していたのは堤防上で、幼虫や蛹も見つかった。河川敷には生息できる環境はなかった。その後堤防が改修されたりして、1987年9月に訪れた時は見られたがやがて姿を消した。本流の安倍川でも私はここ4年間見ていない。

 蝶の季刊誌「ゆずりは」の杠(ゆずりは)隆史さんを同好会前会長の故北條篤史さんと大井川の河川敷に案内したのはいつだったのだろう。大のお酒好きだった北條さんと灘の酒造会社に勤めていらっしゃった杠さんを結びつけたのはたぶんお酒だろう。川根の駿遠橋下にはクロコムラサキが、地名(じな)の河川敷にはミヤマシジミが多数生息していた。やがて駿遠橋下の河川敷のコゴメヤナギ林は伐採された。地名の河川敷にはグランドゴルフ場が整備され、残った場所も植物が茂ったり増水で削られていった。私が地名でミヤマシジミを見たのは2017年が最後である。大井川の他の場所でも去年から見てはいない。

 天竜川の磐田市の河川敷にミヤマシジミを採集に行ったのは1972年の秋のこと。帰りの駅までのバスが来たことに気づくのが遅れ、慌てて手を上げたら、後ろを走っていたダンプカーが急停車したバスを避けようとして田んぼに突っ込んでしまった。逃げるようにバスに乗り込んだ。法的責任はないだろうけど原因を作ったのは私です、ごめんなさい。天竜川の生息地の多くも河川敷で、高位面のへりにコマツナギ群落ができていた。今は浜松市の堤防の一部に残っているだけのようだ。

 安倍川の門屋の河川敷ではコマツナギを覆うクズを刈り取ったりしたがそれでも絶滅を食い止められなかったし、その場所も増水で流されてしまった。道路沿いの堤防下には静岡市のミヤマシジミ保護活動の看板が今も残っている。