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<Web ちゃっきりむし 2023年 No.215-218>

● 目 次
 横山謙二 シリーズ 三保半島の海浜性昆虫移入時期と絶滅の危機(1)(No.215)
 横山謙二 シリーズ 三保半島の海浜性昆虫移入時期と絶滅の危機(2)(No.216)
 平井克男 ヒメオオズナガゴミムシ及びセンマイナガゴミムシ、新種発見時の感慨(No.217-1)
 諏訪哲夫 突然分布拡大を始めたイシガケチョウ(No.217-2)
 福井順治 シリーズ ベッコウトンボの増殖と浜松市への移殖(No.218)

 ちゃっきりむし No.215 (2023年3月)

 三保半島の海浜性昆虫移入時期と絶滅の危機(1) 横山謙二

 三保半島の海浜には、多くの昆虫が生息する。私は友人と、2016年7〜9月にかけて三保半島の海浜性昆虫の調査を行った(坂倉・横山,2016)。坂倉・横山(2016)で、三保半島の海浜に生息する昆虫は、97種の昆虫を記録し、その中で海浜性のコウチュウ目オサムシ科、ハネカクシ科、コメツキムシ科、ジョウカイモドキ科、ゴミムシダマシ科 、アリモドキ科 、ゾウムシ科 の19種を記録した。坂倉・横山(2016)では、この海浜性昆虫を以下の4グループに区分している。

1.前浜を主体に活動する種(前浜主体種)
2.前浜から後浜砂地にかけて広く活動する種(前浜-後浜砂地主体種)
3.後浜砂地を主体に活動する種(後浜砂地主体種)
4.後浜主体に活動する種(後浜草地主体種)

 以上のような海浜性昆虫は、後浜環境に主体に活動する種が主構成となっており、その中には、歩行性で飛ぶことのできない昆虫も多く含まれる(Fig. 1)。

Fig.1 海浜性甲虫の生息環境の傾向.カッコ内の略号はf:前浜,b-f:前浜?後浜境界,b:後浜,S:砂地,G:後浜草地を示し,数値は確認された個体数の割合を示す

 この後浜環境を主体に活動している種群の中で、他の昆虫等を捕食する昆虫として、ヒョウタンゴミムシがあげられる。また、すでに三保半島で近年見られなくなったカワラハンミョウも捕食種であった。

 この両種ともに、全国的に個体数を減らしている種で、県内のレッドデータブックでは、ヒョウタンゴミムシは準絶滅危惧種に、カワラハンミョウは絶滅危惧種TB類に指定されている。その現在の分布を見ると、両種ともに三保半島以外の静岡市内または近郊の海浜では見られず、ヒョウタンゴミムシは、沼津市から富士市の海浜、カワラハンミョウは浜松市の海浜のごく限られた地域にしか生息していない。しかし、この両種を含めた海浜性昆虫が、三保半島に分布を広げた頃は、静岡市内の海浜にもこの両種が当然のように生息していたに違いない。ここで、海浜性昆虫が三保半島に移入した時期と、そして周辺からヒョウタンゴミムシやカワラハンミョウが絶滅した時期を考察する。

 依田ほか(1998, 2000)によると、約6,000年前の海進期(縄文海進)後の海退によって現在の三保半島の原形を形成したと推定し、松原(1989)では、有孔虫群集が約5000年前以降に折戸が閉塞環境に変化したと報告している。また縄文時代後期になると、有度丘陵の東麓には人が住み始め(清水天王山遺跡)、三保半島には宮道遺跡など古墳時代頃の居住痕を含む遺跡がある。このことから、縄文時代中期から古墳時代にかけて、安定した砂嘴が形成されていた と推定される。おそらく、この頃には海浜性昆虫も三保に分布を広げていたと考えられる。

 ところが室町時代ころには、三保半島は島となり、駒越と三保の間を渡し舟で行き来した時期があったと言われ、室町時代の『絹本著色富士曼荼羅図』にも三保半島が島として描かれている(Fig. 2)。三保半島が島となった正確な時期はわからないが、駒越と三保の間の渡し舟を示す『有渡の渡し』という言葉は 、柿本人麻呂 によって詠まれた歌に使われている。












Fig. 2 室町時代『絹本著色富士曼荼羅図』の一部.三保半島が島として描かれている.
                              (つづく)

 ちゃっきりむし No.216 (2023年5月)

 三保半島の海浜性昆虫移入時期と絶滅の危機(2) 横山謙二

 その後、戦国時代の16 世紀には分断していた浅瀬域が埋積され、陸続きになり、再び砂嘴が形成されたと考えられている。したがって、三保は、7世紀〜16世紀にかけて島化した時期があったと考えられる。『絹本著色富士曼荼羅図』には、三保島とともに清水の海岸沿いの海岸が描かれており、この頃には清水港周辺も豊かな海浜環境が保たれていたことがうかがえる。この時期に長い期間隔離され、人の手が加わらなかったことが、現在まで三保で海浜性昆虫相が生き残った要因の一つになったかもしれません。

その後徳川家康が駿河国の領主となったときに、1605年には清水港町を整備するようになるが、歌川広重『東海道五拾三次』の「江尻 三保遠望」などの絵には、豊かな松原が描かれ、まだ自然豊かな海浜が保たれているように見える。

 そして1899年(明治32年)に、清水港が開港場に指定されるのをかわきりに1916年(大正5年)に東海道本線の貨物支線として江尻駅(現在の清水駅)から清水港駅までの区間が開業、1919年(大正8年)に三保造船が創業、1944年(昭和19年)に三保駅まで鉄道がのびるなど、臨海地域の近代化が進み、今では清水港から折戸湾にかけての浜辺は完全に消失してしまった(Fig. 3)。

 三保半島の北側(現在の清水港側)で、海浜が失われた一方で南側の太平洋沿岸は、昭和初期まではある程度、海浜環境は保たれていたと思われる。太平洋側で、大きい海浜環境の変化は、一部の後浜を埋積した国道150線の整備と、1969〜71年頃から安倍川河口付近から進行してきた海岸侵食である。特に海浜環境を大きく変えてしまったのは、海岸侵食であったと思われる。といっても、大きく環境を変えてしまったのは侵食による浜の消失でなく、侵食を防ぐための護岸工事である。

 海岸侵食が進行を防ぐため、現在までにさまざまな護岸工事が行われてきている。その対策工の中で、もっとも海浜に影響を与えたのが、「サンドバイパス工法」と「サンドリサイクル工法」である。両工法ともに、堆積物の自然による供給を補うため、人為的に海岸に土砂を運ぶ工法で、「サンドバイパス工法」は安倍川より、サンドリサイクル工法は三保飛行場のあたりより土砂を運ぶ工法で、県ではこれを「養浜」とよんでいる。ところが、この工法の土砂の運搬し埋積しているところは、海浜性植物や昆虫の生息環境である後浜であった。 ここ数十年で、安倍川河口から三保半島の太平洋側の海浜の後浜のほとんどは、定期に運ばれた盛土により埋積されてしまった。本来の後浜は暴浪時の時に波の影響をうけるところで、平常時の堆積物の移動は、風の力によって運搬が行われるところである。その堆積物は細粒の粒ぞろいのさらさらした砂と暴浪時に運搬された大きな礫によって構成されている。この堆積物は、「砂を掘る」「石の下に身を隠す」など、ヒョウタンゴミムシなどの後浜で生息する海浜性昆虫にとって適していた。ところが、安倍川から運ばれてきた土砂は、淘汰が悪く、泥質分を含んでいるため硬く、これまでの植生までも変えてしまっている。さらに、後浜の土砂は、正常時は波浪の影響を受けないと削られることなく、いつまでもその場に残る。その一方で、前浜は侵食され続けるので、後浜と前浜の高さの差が大きくなり、現在では浜崖のようなものができている。これは養浜でなく、浜の埋め立てと言った方が良い。こうした後浜の盛土のために、1990年頃カワラハンミョウの三保半島最後の生息地は消失してしまい、以降の三保半島でのカワラハンミョウの記録はない。

 以上の海浜環境の変遷から、海浜性昆虫が三保に移入した時期は約5000年前ごろで、三保半島の周囲でカワラハンミョウやヒョウタンゴミムシが絶滅してしまった時期は明治時代以降で、特に1970年代以降の急激な海浜環境の大きな変化によるところが原因となったと思われる。この現代の海浜環境急激な変化は、護岸工事、港の整備など全国的に整備され、三保半島のように縄文時代からの昆虫相が残存しているところは非常に珍しいのではないだろうか。その価値を知らず、現在でも無意味な護岸工事が進行しつつあり、また臨海地域に残るわずかな松原を守るために、マツ材線虫病(松くい虫)防除事業として松原周辺に薬剤空中散布し、闇雲に昆虫等の生物を殺している。このままでは縄文時代から続く海浜の自然環境は消失してしまい、海浜性昆虫・植物の中には、ここ数年間で絶滅してしまった種もでているかもしれない。本当の「松くい虫」「浜くい虫」は人間ではなかろうか?

Fig. 3 明治時代と現在の清水港の比較.左:明治22年清水港周辺の地図(大日本帝國陸地測量部 明治22年測量, 明治41年刊, 二万分一地形圖「清水」「興津宿」「久能山」「駒越村」).右:現在清水港周辺の地図(国土地理院地図https://maps.gsi.go.jp)


Fig. 4 後浜埋積の現状.かつてカワラハンミョウが生息していた東海大学海洋学部付近.

 ちゃっきりむし No.217-1 (2023年9月)

 ヒメオオズナガゴミムシ及びセンマイナガゴミムシ、新種発見時の感慨 平井克男

昆虫類の調査、研究をしていると、この地球上に無数に棲息している種のひとつに自分の名前がついてほしいなと思うことがある。天体の無数の星を眺め天文学にのめり込み、わが名が冠するといいなと願う人があるように――。その最初のチャンスが訪れたのは1997年55才の時である。

ゴミムシ類のスペシャリスト、東京在住の森田誠司さんとは千葉県立中央博物館で開催された日本鞘翅目学会の総会の折お会いして以来、長いおつき合いをさせていただいている。森田さんも時々、静岡市安倍峠を訪れ調査され、モリタメクラチビゴミムシを発見されている。森田さんからの連絡で、安倍峠にてオオズナガゴミムシの仲間の新種が棲息しているようなので、平井さんの採集品の中に入っていないかとのお話があった。当時、安部峠周辺へ通いつめ、トラップをあちこちにしかけ、ゴミムシ類を採集していたからである。多くの採集品の中にそれとおぼしき1頭があり、1997年8月6日に採集されたもので、早速森田さんにお渡しした。残念ながらメスであった。1998年5月、日本甲虫学会エリトラ誌に森田誠司さんにより新種記載発表されたのがヒメオオズナガゴミムシPterostichus toyodai Morita et Kurosawa である。私の採集した1♀はパラタイプとして科学博物館に納められている。パラタイプであったが、特別な感情が湧きあがったのが思い出されます。次はホロタイプで………。

 時は流れ、静岡県のレッドデータ調査の依頼を受け、県内のあちこちの昆虫調査を行なった中で大井川源流域も度々訪れた。JRによるリニア新幹線が南アルプス静岡側の地下を通る計画が発表され、この地の貴重な動植物の調査が求められたことでもある。  ヒメオオズナガゴミムシ センマイナガゴミムシ2013年2014年、森田誠二さんも同行され、南アルプス千枚岳、転付峠にて調査を行った。千枚岳中腹2000m付近と転付峠周辺で多数のゴミムシ類を調査採集した。この中よりセンマイナガゴミムシPterostichus hiraii Morita が発見され2015年5月日本甲虫学会エリトラ誌にて発表された。種名には念願の私の名をつけていただき、森田さんに感謝の意を表すとともに新たな感慨が湧き、コウチュウ類を長く続けてきたことの大切さを実感した次第です。本種は以降大井川源流域西俣、二軒小屋でも記録されている。



 ちゃっきりむし No.217-2 (2023年9月)

 諏訪哲夫 突然分布拡大を始めたイシガケチョウ

地球温暖化の影響は生物にとってやはり極めて大きいと言わざるを得ない。蝶を例にとってこの30年間を振り返ってみると、1993年頃ツマグロヒョウモンが増え始めたのを皮切りに、ナガサキアゲハ(1999年頃)、ムラサキツバメ(2000年頃)、サツマシジミ(2005年頃)、ヤクシマルリシジミ(2006年頃)と続き、実に5種の、これまで全く県内には生息していなかった種、あるいはそれに近い南方系の種が土着してしまったことは実に驚きである。

一方、在来種に目を向けると海岸線からわずか50qほどしか離れていない静岡市安倍川流域の最高峰山伏(2013m)には高山蝶とされるベニヒカゲが1970年代には無数に飛び交い、1990年代まで残っていたが、現在では南の蝶のツマグロヒョウモンの天下となっている様子を見ると気候変動の脅威を感じる。 この次に北上してくる南の蝶は何だろうと考えるとやはりイシガケチョウだろうと会員の多くの方が言う。静岡県で最も早い本種の記録は静岡市日本平で採集された記録が「昆虫界」という雑誌に1943年に報告されている。発表者は静昆の会員でもあった渡辺博信さん。その後記録が途絶え、1980年に静岡市内の園芸屋さんで、仕入れた鉢植えのガジュマルを食べて育ち羽化したと思われるイシガケの個体を見つけたのは清邦彦さんだった。2016年までに静岡県内の発表された記録は上記のものを含めて9例しかない。

以前から食樹も極めて普通にあり気候的にも、生息環境からみても制約要因は見つからないのにどうして静岡県に入ってこないのだろうと感じていた。それは生息地が渓谷沿いで、ここに強く執着しているからだろうと推測をしていた。

 2021年になって県西部で春、越冬個体が複数観察された。越冬個体ということは間違いなく前年の2020年には入り込んだ証拠であり、越冬も問題なかったと言うことだ。この2021年はわずかな報告があるに過ぎなかったが、2022年になり調査が本格化したこともあって県西部を中心に多くの地点から発見され、採集・目撃された個体数もかなりなものとなった。記録事例の多いのはやはり掛川市、森町などであったがこれより東方の島田市、藤枝市からも続々発見された。この時点では安倍川以東ではごくわずかの発見があったがまだ定着しているようには思えなかった。突然9月伊豆半島の伊東市で成虫が撮影され、その後幼虫も確認されている。一般の方からも情報をいただいた。

 まだ全県に広がっていない状況で飛び離れた伊豆で発見されるのはほかの拡大種でもこれまでにあった。ナガサキアゲハやサツマシジミがそうである。駿河湾を直線的に飛び越えるのだろうか。あるいは中間の地域の調査が十分でなかったのか。本当のところは全くわからない

 2023年になり安倍川以東の状況を調査すると、安倍川に東から注ぐ小河川にはどこにもいる状況で個体数も多い。富士川を越えているかについてはすでに2022年10月にSBS静岡放送の記者がアサギマダラの訪花を撮影中に偶然イシガケチョウも撮影でき、県東部の貴重な記録となったとともに、テレビを観た一般の方々への関心を多く引いた。イシガケチョウを見ましたという情報をNPO自然史博物館ネットワークや私個人にもいくつもいただいた。飛び方はユニークで一般の方でも同定を間違うことはまずない。驚いたのは長野県飯田市の方から5月、長野県平谷村の平谷湖で1頭採集したというものだった。長野県初記録であるとともに標高1000mほどの山地にももう入り込んだということであった。隣県神奈川県の情報は確実なものはないがコウチュウ採集の折、目撃したとの話もあるようである。定着するのは時間の問題だろう。

 飼育してみると他チョウでは例を見ないほど成長が早く孵化してからおよそ20日で成虫になる。1年間に何回世代を繰り返すのだろうか。また、越冬するのはメスのみと言われる。本当だろうか。幼虫がまたかっこいい。なんとなく関心をそそる。

 夏のこの時期成虫はあまり見かけない。夏も終盤になり秋になると個体数が増えるので目撃することも多くなるだろう。

是非今後も目撃・採集の記録をご投稿をお願いしたい。


 ちゃっきりむし No.218 (2023年12月)発行予定

 福井順治 シリーズ ベッコウトンボの増殖と浜松市への移殖

<事業の背景>
2019年〜2023年、磐田市の鶴ヶ池のベッコウトンボ個体群に対して、「ベッコウトンボ保全・増殖マニュアル」(日本トンボ学会・環境省 平成31年作成)の手法を使って、採卵から始める幼虫の飼育によってベッコウトンボの増殖を試みた。さらに飼育の目途がついた2020年以降には、1990年代まで生息していた天竜川河口に近い浜松市南区松島町(以下通称:遠州浜)を移殖先に選び生息地の再生を試みた。

ベッコウトンボ(トンボ科)は環境省の種の保存法で国内希少野生動植物種に指定され、捕獲、殺傷、譲渡が原則禁止である。国内では宮城県以南の本州、四国、九州の30都府県に記録があるが、今でも現存生息地が残っているのは静岡、山口、福岡、大分、鹿児島の5県だけである。静岡県では西部の浜松市・磐田市にわずかな生息地が残っていたが、数年前に浜松市では生息地がなくなった。このため磐田市の桶ヶ谷沼・鶴ヶ池は現存する本種の東日本唯一の生息地となり、このうち桶ヶ谷沼は静岡県自然環境保全地域に指定されて、さまざまな保全活動が行われてきた。しかし、1998年夏ごろのアメリカザリガニの大発生によって、1999年にはベッコウトンボの個体数が激減し(モニタリング調査で47頭)、その後の約20年間は増殖のために沼の近くに設置した容器や、沼内に構築した木製の「いけす」を使った増殖によって命脈を保っている状態であった。その方法は沼付近や沼内にアメリカザリガニから隔絶した環境を作り、その食害を避けながら自然に産卵を誘致して繁殖させるもので、年ごとの変動は大きかったが、毎年数100頭〜1000頭ほどがこの装置から羽化していた。ところが、近年になってこの方法も徐々に機能しなくなって羽化数が激減し、2020年にはこれまでの最少記録(モニタリング調査で23頭)となって再び県内絶滅の危機となっていた。

もう一方の鶴ヶ池は桶ヶ谷沼の近くにある、広さ約5.9haの磐田市が管理する公園である。桶ヶ谷沼同様に継続してベッコウトンボの生息が確認されている池沼であり、桶ヶ谷沼でのアメリカザリガニの爆発的増加の時には,2000年代まで多かったこの池の個体群によって桶ヶ谷沼での個体群の維持ができた可能性が高い。しかし、その後2010年代に入るとこの池でも急減して,モニタリ ング調査での確認数も少数に留まっている状況であった。

今回移殖先に選んだ遠州浜は砂丘後背湿地と、マツ林育成のために掘り下げた池沼が点在する各種トンボ類の生息地である。浜松市のベッコウトンボ記録地の中では最も長期にわたって生息が確認された場所であるが、2000年以降は見られなくなっていた。さらに、ここは浜松市の遠州灘海岸約17.5kmに計画された、津波対策のために造成する「浜松市沿岸域防潮堤」の建設場所にも含まれていた。この造成工事に伴う自然環境への影響を避ける目的で、各種の野生動植物の保全対策を検討する自然環境検討委員会も組織された。数年間の検討を重ねた結果、この地域では既存の池の埋め立てを回避しただけでなく、新たな池の造成も行われて多様な水域が作られ、周辺に本種の生息に必要な草原的環境も多く存在する地域になっていた。

<事業の手続き>
 この事業は毎年、捕獲等の申請をして許可を得た上で進めてきた。2020年3月〜4月に、環境省関東地方環境事務所の野生生物課に2020年の鶴ヶ池におけるベッコウトンボの捕獲等許可を申請した際に、併せて浜松市遠州浜への移殖計画を相談した。静岡県自然保護課にも連絡して検討を進め、持続的活動が可能な組織として取り組むように指導を受けたので、この事業に賛同してくれた静岡県西部在住の有志や団体を募って「静岡トンボ研究会」として取り組むことにした。同年5月〜7月に、静岡県・磐田市・浜松市の関係部署やNPO団体、地元の高校の自然科学部などにも計画の許可申請や承認と協力を依頼してこの計画がスタートした。

<増殖・移殖の方法>
 4〜5月に成虫♀を捕獲して採卵し(10〜20♀から3000〜6000卵)、成虫はその場で放した。得られた卵は室内で保管して孵化幼虫を得た。孵化幼虫は現地の鶴ヶ池・桶ヶ谷沼付近の甑塚・遠州浜及び担当者の自宅の野外に設置した、容量25?〜180?で総計では数10個の飼育容器に投入して飼育を開始した。これ らの容器には水と生息地にある水草と泥土を入れて、幼虫の成育に適した環境条件を整えた。成育した幼虫の大部分は翌年3〜4月にそれぞれの現地に設置した容器で羽化させて、成虫として野外に放した(放虫)が、遠州浜では一部の幼虫を幼虫の段階で野外の池沼に放した。この飼育容器を使った増殖法は幼虫の成育環境づくりだけでなく、個体数密度、給餌方法、捕食種や競合種の排除などさまざまな工夫を重ねて実施した(表参照)。



<結果と今後の課題>
増殖・移殖を試みた全部の場所で、目撃できるベッコウトンボの個体数は増加した。中でも桶ヶ谷沼付近の甑塚では、2020年にはほとんど見られなかった状態から、2021年以降は来訪者が確実に観察できる状態にまで劇的に増加した。ここでは「NPO桶ヶ谷沼を考える会」によって本種の大量飼育の手法がほぼ確立され、担当者の役割分担やボランティアの協力体制も整ってきている。 生息地の再生を目指して移殖を試みた遠州浜では、2021年以降は約20年ぶりにベッコウトンボが飛翔する池沼が復活した。すでに遠州浜では2023年の春に容器は撤去しているが、これまでに現地の池沼で幼虫の成育が確認されており、少数ながらその幼虫からの「自然羽化」も2022年から記録されている。

しかし、放虫した場所は特に密度が高い状態なので目に見えて増加した印象を受けるが、その後の世代にわたって個体群の密度を高く維持することには直結しないと考えている。それは、増殖を必要とする程度に減少した生息環境では、放虫によって増加した個体群密度をそのまま維持できる環境条件(生息空間、餌生物、捕食生物、競合種など)が整っていないことが多いと考えるからである。ましてや、記録が途絶えた生息地の場合には、個体群が消滅した何らかの大きな理由があるはずなので、環境条件の検討が特に必要となる。チョウの例であるが、放蝶することは増殖(生息密度上昇)の有効な保護法ではないとする報告もあり(小林隆人2003)、この報告の中でも、生息環境の改善ならば増殖につながる可能性があることを指摘している。

すなわち、増殖においては放虫数を増やすことより、生息環境を確保してその条件を改善することが重要であり、今回の事業でも直接的な増殖・移殖の作業の一方で、並行して生息域の水生植物の間引きなどで生息環境の改善を試みている。遠州浜の場合は、防潮堤建設の工事に伴う野生動植物の保全対策の一環で、重機による植生の間引きが行われたことも、移殖による生息地の再生に挑戦する絶好の機会になると考えた理由である。

一方では飼育容器は「好適な植生の管理」「渇水などの水位対策」「農薬汚染などの水質対策」「外来種などの食害対策」などがしやすい利点があり、設置することで絶滅回避の最後のシェルターとして機能する可能性があると考えている。さらに並べて水、水草と土を入れるだけで多様なトンボ類などを誘致できる、安価で簡便な水辺環境の造成に有用な手法でもある。小型容器に誘致されたトンボ類はこれまでに5科45種にも及んでおり(松木・福井、2022)、絶滅危惧種の保全対策になるだけでなく、水生動植物を身近で観察できる場所を作ることに役立っている。

<おわりに>
この事業を進めるにあたり、現地の作業や調査においてこの事業に賛同していただいた多くの方々にご支援・ご協力をいただいた。改めて厚くお礼を申し上げる。

<引用文献>
小林隆人(2003)放蝶はオオムラサキの保護活動にとって有効か?.日本産蝶類の衰亡と保護第5集.日本鱗翅学会:185-197.
松木和雄・福井順治(2022)小型容器によるトンボの誘致、トンボの観察と考察(4):1-21
日本トンボ学会・環境省(2019)ベッコウトンボ保全・増殖マニュアル:1-28.