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<Web ちゃっきりむし 2020年 No.203-206>

● 目 次
 福井順治 シリーズ 昆虫のいた時代F「私の昆虫少年時代」(No.203)
 鈴木英文 シリーズ 昆虫のいた時代G「静岡平野の昔と今」(No.204)
 森田 東 シリーズ 昆虫のいた時代H「イシ、ホシ、ムシ (1)」(No.205)
 森田 東 シリーズ 昆虫のいた時代H「イシ、ホシ、ムシ (2)」(No.206-1)
 白井和伸 シリーズ 昆虫のいた時代I 「I was there」(No.206-2)

 ちゃっきりむし No.203 (2020年3月)

 シリーズ 昆虫のいた時代F「私の昆虫少年時代」 福井順治

 私の生まれ育ったところ(現菊川市)は、田畑の中に人家が点在する農村だったので隣家を気にすることもなく、家でウサギ、ヤギ、インコ、ハトなどいろいろな動物を飼うことができた。童謡の「ふるさと」の歌詞のように、うさぎこそ追いかけなかったが、近くの川で小鮒やオイカワ、タナゴ、ウナギなどを釣って遊んだので、自然に生きものが好きになったと思っている。もちろん昆虫も大好きで、チョウ、トンボ、セミやカブトムシ採りにも夢中になって過ごしていた。小学2年生で昆虫の標本づくりを始めた私は、3年〜5年まで3年連続して夏休みの作品展で昆虫標本が入賞して、さらに昆虫にのめり込んでいった。こどもの遊びとしての虫捕りが、「昆虫セット」によって標本づくり(夏休みの宿題)に発展できた時代である。小学校の時の日記には虫採りに行ったことが多く書かれている。小学校6年では夏休みの作品には昆虫標本は出さなかったが、夏休みの日記を2つ書くことに決めて、一方は普通の日記、他方は虫に関することを書き綴った「昆虫日記」を毎日つけて提出した。昆虫日記にはほとんどが自宅周辺で観察したヘイケボタル、キアゲハ、オニヤンマ、カブトムシ、ヒグラシ、キリギリスなどの様子が綴られている。雨の日には何を書こうかと悩んだことも記憶している。日記には、父に連れて行ってもらった静岡市のデパート(田中屋)で、スズムシが120円、キリギリスが80円で売っているのを見て、「いくらなんでも高すぎる」とも書いている。

 団塊の世代である私ぐらいまでの虫屋は、虫遍歴の原点が生物部にある人が多いのではないだろうか。野外に出かけて昆虫採集をする生物部が、学校の部活動として珍しくなかったと思う。私も1962年に菊川中学校に入学して生物部(クラブ)に入って、チョウを採集している仲間と出会ったことから主にチョウの採集をするようになった。顧問の先生はいたが部員数もわずかだったので、一緒に遠方に出掛ける機会は少なかった。しかも我が家は学校のすぐ近くなので、学校の周辺で採集をするということは、これまでと同じ自宅の周辺に行くだけだった。主な採集地になったのは、JR菊川駅の南西の丘陵地の高田ヶ原(現在は常葉菊川高校がある)、1級河川の菊川やその支流の西方川の土手と河川そして茶畑とマツ林が点在する丘陵とその周辺の神社の森であった。

 夏になると高田ヶ原にはオニヤンマが何頭も悠然と高飛していたし、チョウトンボの群れも見られたが、丘陵地の神社のある尾根筋では、いわゆる「蝶道を飛んでくるモンキアゲハやカラスアゲハなど大型のアゲハチョウが狙い目だったと記憶している。川の土手も良いポイントで、川岸のヤナギにはコムラサキ(特にクロコムラサキ)、ゴマダラチョウ、サトキマダラヒカゲが多く、梅雨のころにはクワガタムシもよく採れた。クワガタムシを採集する時には柄の長い水網を持っていき、川面に張り出したヤナギを蹴飛ばして水面に落ちて流れてくる個体を下流ですくうという方法をよくやった。川岸にはイボタノキもあって、ウラゴマダラシジミもよく飛んでいたので、しっかりした河畔林が残っていた時代だったと思う。菊川の河川敷にはツマグロキチョウも発生していた。

 土手には6月末〜7月初めにヒメジョオンが一面に咲いた。1962年の日記には「7月1日 月曜日 雨のち曇り 午後になって少し青空が見えたがあいかわらず雲が多い。捕虫網を持って西方川の栗林橋の上に立ったら、10数m先の(土手の)小さな白い花に赤茶色のチョウが止まっているのが見えた。何のチョウか考えながら近づくと、3mぐらい手前でヒョウモンだと分かった。ふるえる手をおさえてパッと網を振るとうまく入った。大きいからオオウラギンスジヒョウモンだと思った。」と書いている。これはウラギンスジヒョウモンの♀であったが、初夏のころに最もたくさん見られたヒョウモン類であり、他にはメスグロヒョウモン、クモガタヒョウモンがわずかにいた。

 マツ林が残る丘陵地の草地は「茶草場」として刈り払われていて、春にワラビ採りに行くとシラン、キンラン、イシモチソウ、ハルリンドウやヤマツツジが咲き、ミヤマセセリ、コツバメもいて、マツの枝先からはハルゼミのけだるい合唱が聞こえてきた。夏にはキリギリスが多く、これを捕らえて軒先につるした虫かごで飼うのは夏休みの定番で、近所の人から譲ってほしいというリクエストもあった。草地にはホソバセセリやジャノメチョウも生息していた。現在のこの付近の景観は、工業団地や運動公園の造成、茶園の耕作放棄、松枯れの進行によって、地形も植生も大きく変貌して昔日の面影はなくなっている。

 菊川中学校は1学年が11クラスもあったため、同学年でも名も知らない生徒は多かった。1963年、2年生になって入部してきた横山武治君と知り合うことになった。彼は隣の小学校の出身で、チョウの標本でたびたび入賞している昆虫少年だった。それまで同学年に虫が詳しい人がいなかったのが不満だったので、すぐ打ち解けて仲良くなってその後はいつも一緒に採集に出かけるようになった。この年の夏休みの7月26日〜29日に、彼と2人で本川根町方面へ採集旅行を計画した。どんな段取りで決まったのかほとんど記憶はないが、2人それぞれの親を通じて親戚に泊めてもらえることになって実現したものである。この旅行では千頭や井川ダム付近を回って、オナガアゲハ、オオミスジ、スミナガシ、クロヒカゲモドキなど、家の周辺では見られない山地性のチョウや大型のミヤマクワガタ、ノコギリクワガタなどをたくさん採集して大満足したが、何といっても初めて見た巨大なオオムラサキに夢中になった。私はエノキの樹上を高く飛ぶものと、大井川の河原を滑空するものを目撃したが網も振れず、川岸にあるヤナギの樹液にいた♀を横山君が採っただけだった。

 翌1964年にはオオムラサキを採りたい一心で、中川根町下泉〜田野口付近に出かけて、破損の少ない個体をたくさん採集しただけでなく、テングチョウ、オオミスジ、サカハチチョウ、クロヒカゲモドキ、クロコノマチョウなどを採集した。この年の7月5日の日記には「オオムラサキの採集に一息ついたときに妙な声を聞いた。ミンミンゼミとハルゼミとアブラゼミを一度に鳴かせて3で割って少し大きくしたような声であった。セミらしいと思って探したがなかなか見つからなかった。かなり探してやっと見つけたのは、声の割にはとても小さなセミだった。のちに調べてみたところ本州ではやや少ないヒメハルゼミだと分かった。」と書いている。ここでは至る所に鳴いていて翌週に部活動で行った時には10頭ほど採っている。9月6日には笹間渡に寄って何百頭もの大量のミヤマシジミを見つけている。

 その後、横山君と私は同じ高校に入っても迷わず生物部に入って活動することになる。なお、当時の菊川市のチョウの記録は彼のものも含めて、駿河の昆虫No109(1980)に報告している。

 

 ちゃっきりむし No.204 (2020年6月)

 シリーズ 昆虫のいた時代G「静岡平野の昔と今」 鈴木英文

 昔と言っても戦後生まれの私にとって、虫採りの記憶は昭和20年代後半以後のこととなるが、当時清水市(現静岡市清水区)の中心部に近い家の周りにもかなり自然は残っていた。空襲で焼けたまま、家の土台しか残っていない空き地で初めてキリギリスを捕まえた。変な鳴き声を耳にし、散々探した挙句やっと見つけたキリギリスは本の絵にあるとおりで興奮した。慌てて捕まえ指を咬まれた記憶がある。また近くの田圃で水網を入れるとタイコウチやコオイムシが採れた。水の中にいるタイコウチが空を飛ぶなどと、当時は想像もできなかったが、ずいぶん後にスラウェシ島のバンチムルンで蝶を採集中に飛来したタイコウチsp.を網に入れて納得した。空き地には色々なバッタがいて、捕まえて遊んだが、土色のバッタを捕まえて、子供用の図鑑で名前を調べると、クルマバッタモドキと書いてあって、モドキの意味が分からず頭を悩ましたことを思い出す。また近くの神社の脇に生えていたメダケ?の周りを白っぽい小さな蛾の様なものが飛んでいて、のちにそれがゴイシシジミが発生していたのだと知った。家の庭のブドウの葉を穴だらけにしてしまう甲虫がいて、子供たちはクソブンと呼んでいた。捕まえると液状の糞を垂れ流すのでクソブンとバカにしていた。山のほうに行かなければ採れないカナブンや、もっと山の奥にいるアオカナブンを捕まえると友達にも自慢できたが、クソブンは嫌われていた。このクソブン(ドウガネブイブイ)も今ではアオドウガネに押されて数が減ってきているそうだ。

 静岡から清水にかけての平野には、市街地の中に浮かぶ島のような小山がいくつかある。日本平のある有度山と北方山地との間に、旧静岡市では谷津山、八幡山、有東山、旧清水市では秋葉山、神明山などで、宅地が広がることにより生息地を追われた虫の避難地となっていた。その中で一番大きい谷津山でも北東から南西方向に長さ約2000m、幅700mほどしかない。その山の麓にある中学校に通っていた私は授業が終わると、生物部の仲間とネットを持って夕方までこの山で蝶を採集していた。学校の横の枝尾根の向こう側には静岡市の火葬場があったため、風向きによっては非常に香ばしい臭いが漂うことがあった。谷津山は一部に茶畑とモウソウチク林があるほかは、大半が照葉樹林に覆われ、麓の護国神社の林を含めた谷津山全体では1962〜63年の調査で49種、64年に2種追加され、計51種の蝶が採集、目撃された。当時の手書きガリ版刷りの部誌を見るとアゲハチョウ科、8種、アゲハ、キアゲハ、クロアゲハ、カラスアゲハ、モンキアゲハ、ジャコウアゲハ、アオスジアゲハが普通に見られ、オナガアゲハも採れている。

 シロチョウ科、8種、モンシロチョウ、スジグロシロチョウ、エゾスジグロシロチョウ、キタキチョウ、モンキチョウ、ツマキチョウ、ツマグロキチョウ、特に中学校の校庭で採集されたヒメシロチョウは静岡市で3番目の記録でその後は採れていない。
 タテハチョウ科、21種、アカタテハ、ヒメアカタテハ、ルリタテハ、キタテハ、ヒオドシチョウ、ゴマダラチョウ、コミスジ、のほかイチモンジとアサマイチモンジの両方が生息、メスグロヒョウモンは一時発生したようだ。クモガタヒョウモン、ミドリヒョウモン、ウラギンスジヒョウモン、スミナガシ、アサギマダラは秋に飛来した模様。コジャノメ、ヒメジャノメ、ヒメウラナミジャノメ、ヒカゲチョウ、サトキマダラヒカゲ、クロコノマなどが採集されている。
 シジミチョウ科、9種、ルリシジミ、ヤマトシジミ、ツバメシジミ、ウラナミシジミ、ベニシジミ、ムラサキシジミ、ウラギンシジミが普通に見られ、トラフシジミも春型、夏型の両方が採集されている。ゴイシシジミも発生している。
 セセリチョウ科、5種、チャバネセセリ、イチモンジセセリ、キマダラセセリが普通、オオチャバネセセリ、コチャバネセセリも採集された。

 平地性ゼフィルスは、照葉樹が主でクヌギ、コナラがほとんどない谷津山では見つからなかった。後に諏訪哲夫氏に聞いたところによると、このほかにミヤマカラスアゲハ、オオムラサキ、クロヒカゲ、アオバセセリの記録があるという。現在調査すればナガサキアゲハ、アカボシゴマダラ、ツマグロヒョウモン、ムラサキツバメ等が追加されると思う。

 谷津山以外でのめぼしい記録では、有度山でアカシジミ、オオミドリ、ミズイロオナガの平地性ゼフィルス、コツバメ、ジャノメチョウの記録があり、近年サツマシジミ、ホソバセセリも採れている。静岡平野北方の山すそでは、テングチョウ、コムラサキ、ウラゴマダラシジミ、ダイミョウセセリ、ヒメキマダラセセリなどが加わり、近年にはスギタニルリシジミも分布を広げてきた。迷蝶を除いて静岡平野の蝶としては70余種になる。これらすべてが現在でも採集できるわけではないが、この70種ほどが静岡平野の蝶と言えるのではないかと思う。

 私は中学生からは、ほとんど蝶しか採集しなくなったが、最後に旧清水市のアオオサムシのことを書いておこうと思う。先に静岡平野に浮かぶ島の様な小山と書いた内の秋葉山は、南北に長さ800m余、幅200m弱の小山であったが、東海道新幹線が真ん中を分断し、秋葉山のある南の山と、鹿島山(現在は秋葉山公園がある)と当時呼んでいた北の山と二つの山になっている。この秋葉山の近くの高等学校に通っていた私は、生物部の後輩とこの秋葉山の調査も少しやっていた。66年に北側の鹿島山の茶畑にオサトラップを掛けた一年生が緑色のオサムシを持ってきた。このあたりにいるオサムシはシズオカオサムシで、アオオサムシは富士川から東にしか居ないはずであった。その後2頭が追加採集され、計3頭。当時はまだシズオカオサムシはアオオサムシの亜種とされていた時代であった。新幹線工事によって持ち込まれた移入種であろうとの意見もあったが、どうであろう。私はアオオサムシの分布西限は静岡平野までだったのだろうと思っている。数年前確認したくてオサトラップを仕掛けるために昔の茶畑を訪れてみた。茶畑は秋葉山公園として山肌が削られ、立派な?公園として整備されて、地面は乾燥し、とてもオサムシがいるようには見えなかった。もちろん仕掛けたトラップには何も入っていなかった。

 ちゃっきりむし No.205 (2020年9月)

 シリーズ 昆虫のいた時代H イシ、ホシ、ムシ (1) 森田 東

 昆虫のいた時代に、実は私は虫を追いかけていなかった。だから、これから書くことも、少年時代から虫を追いかけてきた先輩たちの今までの連載とは中味が少し異なるかもしれない。

 とはいっても、人並みに小学生時代は夏休みを中心に虫取りに明け暮れた。しかし、その虫の中心に今は夢中になっているトンボやチョウの姿はなかった。トンボはすぐ腐る。小学生にその内臓を抜くという知識はなかったし、それを教えてくれる大人もいなかった。チョウの美しさ、とくにミヤマカラスアゲハの美しさには目を奪われたが、その美しさをとどめる術を持っていなかったので、網の中で翅が無残にも崩れていく姿を見て、いら立ちをもって採るのを止めた。

 もっぱらセミ採り、カブ(カブトムシ、クワガタ)採りだ。腐らないし、夏休みの遊びが自由研究になれば一石二鳥だった。シャーシャー(クマゼミ)、ミンミン(ミンミンゼミ)、チーチー(ニイニイゼミ)、ガンコツ(ミヤマクワガタ)、ツノサカ(ノコギリクワガタ)、ウシ(ヒラタクワガタ)・・・ 山道の崩れかけた土手にコナラやクヌギの腐った根がたまに露出していた。すると夢中でその根を掘るのだ。運がよければその中からウシが採れた。こういうウシはほとんどが大物だった。「ウシだ!」子供の手のひらサイズもあるウシ、言い方は最初のウに力点を置いたウシで、牛と微妙に違う。夏休みも近づく頃、奥野(今は奥野ダムになった地域)から通う同級生たちは朝採りのクワガタを学校に持ってきた。目を見張る大きさのガンコツやカブなのだが、誰にあげることもなく彼らは持ち帰るのだった、クソ! コナラやクヌギの樹液酒場にはスズメバチの仲間がたいてい群がっていた。その中にたまにスミナガシやコムラサキが混じり、せわしなく動きながら樹液に貪りついていた。伊東市ではほとんど見ることもなくなったスミナガシ、コムラサキは今から50年以上も前の話だが普通の蝶だった。

 小学6年になったとき、へそ曲がりの私は興味の矛先を変えた。誰も見向きもしない石や鉱物だ。伊豆は火成岩の大地がほとんど、安山岩や玄武岩など面白くもなんともないが、馬場の平で黒曜石を採ったり、川で時折採れる摩耗していない石英質の岩石の空洞部に細かな水晶の結晶がびっしりとついていたりすると小躍りして喜んだものだった。山中の崖に白い粘土質の層が露出していたりするとその層を丁寧に掘っていく。するとたまにピカピカと金色に輝く鉱物が採れた。伊豆には金鉱が多いので、はじめは金ではないかと思ったが、調べていくと黄鉄鉱であった。こういう興味は中学時代も続いた。中学2年の夏休みちょっと前、理科のN先生から声をかけられた―「夏休みの〜日に、理科の先生たちのバス研修旅行がある。伊豆各地の地質の研修だけど、興味があれば行かないか。K君も誘っていいよ。」Kは日常的に全天恒星図などを持ち歩く生意気な奴であったが妙に気が合い、興味の対象もほとんど同じであった。中学校の先生たちの研修旅行に参加したのは私の中では画期的なことだった。静岡大学の鮫島助教授の作成したレジュメをもらい、大室山の噴火が5000年ほど前(当時の説)であることを知り、中伊豆下白岩の露頭に新生代新第3紀の示準化石であるレピドシクリナが入っていること、またその層からは示相化石のサメの歯の化石がよく採集できること、筏場新田の路上で長石の混じった黒曜石がよく採集できることなどを知った。後年、高橋真弓さんの著書「蝶―富士川から日本列島へ」を読んだとき、その中に静大の鮫島教授の話が出てきて驚いた。その研修旅行のときに、「伊豆の地質に興味があるのなら静大にいらっしゃい」と声をかけてもらったが、私は畑違いの道を進み再会することはなかった。

 K君は私の中では特別な意味を持った、少し変わった友人だった。あの研修旅行のあと、二人で下白岩まで伊東から何度も歩いて行った。途中の観察をしながら『歩く』ことに意味があった。歩くというと軽く聞こえるかもしれないが、中伊豆へ通じる冷川峠を歩いて越えて行くのは昔も今も大変なことだった。しかし、朝もやの立ち上る峠の道を遊びながら二人で歩く光景は私の中でも最も美しい光景の一つとなっている。朝の5時に待ち合わせ。下白岩に着くのはお昼ちょっと前。場違いな大きなリュックを背負った汗まみれの少年二人を見て、中伊豆の人たちは優しかった。「なに、歩いてきた? 伊東から? 何しに来た? 何? 化石を採るため? とんでもない子供たちだ。ほれ、冷たいジュースを飲め、パンも食え。」今では、下白岩のレピドシクリナやサメの歯の産地を掘ることは禁じられ、大雨の降った日のあとに道に落ちているサメの歯などを拾うしかないのだが、当時は肩に食い込むほどリュックに岩石を入れて持ち帰ったものだった。レピドシクリナはほとんどがniphonicaという学名の円形の有 孔虫であったが、ほんのわずかだが、たまに星型のmakiyamaiが混じっていることがあった。これはサメの歯を見つけた時と同じくらいの喜びだった。

 このころに天文ガイドが創刊されるなどして私の興味は次第に天文現象、特に彗星探索に移っていったが、K君の興味は不動であり続けた。高校に入ってからも変わらず。高校3年の、年も明けそろそろ受験のシーズンが始まるころ、ひょっこりと彼が目の前に現れた。「ねえ、英語の勉強だけど何を勉強したらいいか教えて。」これにはあきれかえったが、いかにもKらしい。好きなことしか夢中にならない。1週間で英語ができるようになりたい、という希望を聞き、こいつはバカかと思ったが、とりあえず速攻性の単語集を教えた。1週間後、単語集は完璧に終えたとの報告を受け、テストすると確かに単語だけは頭に入ったようだった。千葉大を受けることを聞き、これが高校時代の最後の会話となった。その後、私は自分の興味とはまったくかけ離れたお茶の水にある某大学法学部へ進み、K君は受験に失敗したことを風の便りで知った。

 大学1年の秋、神田の古書街をほっつき歩いていると、見慣れた姿を遠方に見つけた。分厚い本を抱えてひょこひょことこっちに歩いてくる。しばらくすると、相手も気づいた。「おー、ひさしぶり。」Kだ。「ねえ、聞いてよ、〜の化石図鑑を見つけたんだよ。ずっと探していたけど、あったんだよ。」相変わらず、自分のことしか話さない。自分の興味だけが優先なのだ。「おい、K、お前、予備校どうしたんだ。来年はもうすぐだぞ。」「そっちは大丈夫、来年は大丈夫、それより、見てくれよ、この図鑑に・・・」実はこのときがK君との最後の出会い、この時から今まで会ったことも話したこともないが、やはり風の便りで次の年に千葉大に無事合格、その後地質学教室に入ったことを聞いた。大学を卒業したあと、これまた風の便りで念願の東京大学の大学院に入ったとの話を聞いた。その後自分の専門の地質学を生かせる会社に就職したとの話を聞いた。

 一方の私は、いろいろな経験を積んだ後の1989年1月28日、小惑星8番フローラで自分の観測精度を確かめてみようと、しし座のある領域にカメラを装着した天体望遠鏡を向けていた。2晩の観測があれば円軌道、3晩の観測があれば楕円軌道が求められる。素人の写真観測から果たして正確な軌道要素は求めることができるのか。しかし翌29日の朝、現像してみると、水素増感したTP2415フィルムが浮き上がってしまい、星像はぼけていた。まるで漫画のような話だが、この日の夕方、実家の建築、木工会社が火事になった。したがって、フローラ撮影は中断。親父の会社の火事の後始末、資金繰りに駆け回り、天体観測の余裕が戻ったのは一月後だった。2月28日、同じ領域をねらって再度挑戦。今度はフィルムが浮き上がることなく星像もピントがきていた。しかし、この領域にあったメシエ天体M66に奇妙な光点が写っていた。いったい何だろう? 疑問が解消されないまま月が替わり、天文ガイドが届いた。そこに、なんと『M66に超新星現る』の記事。あの光点だ。急いで、雑誌の写真と自分の写真を見比べる。同じだ。発見日は1989年1月30日。火事の翌日だった。仮定で物事を考えるのは阿保らしいのだが、もしも火事にならずに、あのまま同じ領域の撮影をしていたら・・・そのときの写真がこれ(左)である。もちろんトリミングしてあるが、右がM65、左がM66で→の光点が超新星SN1989Bである。

 ちゃっきりむし No.206-1 (2020年12月)

 シリーズ 昆虫のいた時代Hイシ、ホシ、ムシ (2) 森田 東

 火事の後、家を新築し両親の面倒を見るために伊東の郊外から市街地へ移った。おかげで夜空は星空とは無縁の明るい夜空。目も悪くなり、次第に星空は遠くなっていった。野外に出ることも少なくなり、だんだんと室内にこもるようになった。53歳のとき、何もせずに半年で85sあった体重が68sになった。脈拍は常時135くらい、夜も眠れない。癌を覚悟した。妻は病院へ行くことを執拗にすすめたが、受験生を抱える小さな私塾では大きな病気が予想できるときほどなかなか病院へ行く決心がつかない。しかしついに塾を閉める算段をして病院へ出かけた。病名は癌ではなく、バセドー氏病。甲状腺のホルモン異常だとわかった。今はよい薬があるから心配ないとのこと。仕事を辞める必要はなくなったが、室内で多くを過ごす生活を見直すことにした。大学卒業の年には肝臓をやられ、それからほぼ30年後また病気で自分の生活を顧みる必要が生じた。まったく人生とは面白いものだ。

 そうだ、生きていられるなら、昼間、明るいときに外に出よう。このころから虫採り網を持ち、トンボを追いかけ始めた。理由は、友人がある人物からトンボの同定を依頼され、真っ黒に変色したムカシトンボを見たからだ。伊東にもムカシトンボがいることを自分の眼で確かめたかった。生きたムカシトンボを見てみたかった。仕事は午後からなので、雨の降らない日の午前には、ほとんど毎日のように網をもって奥野ダムの奥に伸びている奥野林道へ出かけた。羽化途上の姿、ニガイチゴの枝に翅を閉じて止まる姿、4、5頭の群れで突然現れて源流部からその脇の道を回るように飛び交いながら♂が♀に襲い掛かり交尾する姿、そんなムカシトンボに出会うまでに2年の月日を要したが、その間に出会ったトンボ、チョウの知識が今の自分を作っている。その頃、伊豆高原に住む宮内和雄さんのところを訪ね、チョウのことをいろいろ教わり始めた。宮内さんの話を聞くとき、宮内さんと網をもって野外に出るとき、不思議と居心地がよかった。落ち着くのだ。それはまるで大昔、Kといっしょに歩いている感覚であった。純粋に自分の関心事だけに意識を注ぎ、それだけで完結する。

 静昆に入会したのもこの頃だ。よく見れば、あちらこちらにKがいる。代表格は高橋真弓氏。年齢を重ねてから、まさかこんなに多くのKと出会うとは夢にも思わなかった。石(イシ)、星(ホシ)、虫(ムシ)。(ほんとうはイシとホシの間にジョシという言葉が入りそうなのだが)、興味の対象はいろいろと変わってきたが、多くのKたちと出会えた喜び。この喜びがこの先もいつまでも続きますように・・・。

 ちゃっきりむし No.206-2 (2020年12月)

 シリーズ 昆虫のいた時代I I was there  白井和伸

 「昆虫のいた時代」シリーズに寄稿するように求められ、当惑した。自分は生まれも育ちも新居町である。町内の最高地点は100mに満たないし、川らしい川もないので、たいしたチョウはいないうえ、個体数も極めて少ない。分布調査の強者ぞろいの本会会員でも、新居町でネットを振ったことがある人はほとんどいないと思う。

 シオカラトンボやトノサマバッタ、アブラゼミなどを採っていた虫捕り小僧の頃ならいざ知らず、ある程度本格的に虫に取り組み始めた中学、高校時代は1970年代で、石油危機、第二次石油危機と重なる。高度成長が終わり、自然破壊が進んだ時代でもあるから、中学、高校と活動範囲が広がっても「昆虫のいた時代」はほとんど経験がない。「昆虫のいなくなりつつある時代」であり、「(今よりは) 昆虫のいた時代」の記憶だけである。

 高校は電車で浜松まで通った。新居町駅までの道筋に新居関所跡がある。当時すでに通行手形は廃止されていた。門前の街灯下、半径5mほどにおびただしい数のシロスジコガネが転がっていた。足元を見ないでまっすぐ通り抜けたなら、50、もしかしたら100位は踏みつぶしただろう。9割方シロスジコガネで、1割がコフキコガネ、1%くらいオオコフキコガネが混じっていた。踏まないように気を付けて歩いたが、自分にとって「昆虫のいた時代」と呼べるくらい町内でたくさんムシを見たのはその程度の記憶しかない。

 中学校は町内の丘の上にあり、通学には坂を上り下りすることになる。道筋でホソバセセリやアサマイチモンジをしばしば見かけた。ホソバセセリは県のレッドリスト種であり、レッドデータブック作成にあたっては町内を真剣に探したが、全く見ることはできなかった。思えば70年代は林縁やちょっとした空き地にはススキが多かった。今はネザサに取って代わられた。ススキがなければホソバセセリが生き残れるはずがない。近頃は、イチモンジチョウ、アサマイチモンジを飼育すると、餌の補給に苦労するようになった。思い返せば、70年代には、林縁や道路、田畑の法面にスイカズラがふんだんにあった。今はまじめに探さないと見かけないのである。アサマイチモンジは町内にまだ見られるが、当時に比べると格段に少なくなった。

 これら在来種の衰退に取って代わって幅を利かせるようになったのが、北上してきたいわゆる南方系種である。

 チョウで言えば、本県では1990年代にナガサキアゲハ、ムラサキツバメが進入、定着し、続いてヤクシマルリシジミ、サツマシジミが定着または定着しつつある。

 ナガサキアゲハ、ムラサキツバメは、西遠や東三河で分布拡大に気がついて調べ始めたときには、すでにかなり定着しており、いつ、どこから入ってきて、どのように広がっていったのか、経過を追うことはできなかった。ナガサキアゲハは最初浜岡方面で複数の記録が出たが、本当に浜岡から入ったのか筆者は疑問に思う。思うだけで証拠はないし、どのような経路でどこから来たのか、見当が付かない。

 ムラサキツバメは、今思えば静岡駅や浜松駅で採集されたときにマテバシイを調べていれば、何か手がかりが得られたかもしれない。幼虫の巣を探すのが分布調査に有効であることは、最初のころはまだ認識がなかった。その後巣を探す方法により分布調査が進むと、すでに県下に広く定着していることが確認され、侵入経路や分布拡大状況は見逃した。ちなみに浜松駅周辺の高架下には、マテバシイが植えられており、筆者は遠鉄百貨店沿いのバンビツァー乗場のマテバシイでも幼虫を確認している。

 続いてヤクシマルリシジミ、サツマシジミである。前者は愛知県から徐々に東進している気配であり、後者は志太地方から広がったように見える。今どこまでいてどこからいないか、ある場所ではいつから見られるようになったか、きちんと記録しておけば、うまくいけばヤクルリ前線、サツマ前線が描けるかもしれない。富士山周辺のウスバシロチョウの分布拡大の様子は、見事なウスバ前線が描かれている。

 そしてクロマダラソテツシジミと続く。ただし今後越冬・定着するかどうかわからない。アカボシゴマダラは北上とは別の話しであろう。

 突然話が変わるが、メリケン国に"I was there."という言い回しがあると聞く。スポーツなどで偉大な記録が達成されたとき、後々まで語られるような劇的な場面などが話題になったとき、スタンドで見ていた人が自慢げに発する表現らしい。「自分はそこにいたぞ」「スタンドで目の当たりにしたぞ」。ラグビーワールドカップで日本がアイルランドに勝った試合をエコパで観戦できた人は、将来口にできるだろう。

 南方系チョウの分布拡大の時期と場所に居合わせるのは、偶然である。偶然ではあっても、折角目の当たりにしている現象であるから、動きをきちんと把握して後の世代に記録を残し、自信を持ってI was there.と言えたらいいと思う。

 南方系のチョウたちが、三重県などから海越えで静岡県に達したのか、愛知県から陸伝いに分布を拡大したのかわからない。自分は、たぶん県内会員では最も西に住んでいると思う。仮に陸伝いに侵入するなら最前線である。陸伝いではないとしたら、侵入の形跡はないと自信を持って発言したい。

 クロマダラソテツシジミは、県内では浜名湖の西側からは記録がなかったが、昨年2019年に初めて確認した。今年2020年は一層広い範囲で見つかっている。ナガサキアゲハ、ムラサキツバメの初動にうまく対応できなかった反省もあり、この夏以降はクロマダラソテツシジミには時間をかけている。場数を踏むにつけ、2019年の拡散の動きが十分把握できていなかったと感じている。

 こんなことを考え、ささやかな使命感を持ち、今年は取り組んでいる。
 ここまで書いて、文章を締めようと思ったところでふと別のことを思いついたため、前向きの気持ちを自分でくじいてしまった。

 分布拡大する種がある一方で衰退している種がある。最初に記したホソバセセリやアサマイチモンジに限らず、県内外各地とも例外なく在来種の生息状況は悪化する一方である。リニア中央新幹線は大井川源流地帯の自然を壊滅的に壊すだろう。大規模な自然の改変は、個人の力では防ぎようがない。それぞれの地域でそれぞれの種がいつまで見られたか、きちんと記録に残しておくことが大切であろうし、残念ながら個人ではそれくらいのことしかできない。在来種たちが消えていきつつあるまさにその時期、その場所にいるとするなら、将来"I was there."と、消え入るような声で言わなければならないのだろうか。