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<Web ちゃっきりむし 2021年 No.207-210>

● 目 次
 諏訪哲夫 シリーズ 昆虫のいた時代J山梨県旧六郷町のヒョウモンモドキ(No.207)
 渡邊定弘 シリーズ 昆虫のいた時代K富士山麓にたくさんの蝶がいた頃(No.208)
 谷川久男 シリーズ 昆虫のいた時代L箱根西麓「三島市芙蓉台」周辺の自然 (No.209)
 高橋真弓 シリーズ 昆虫のいた時代M) 南アルプスでの蝶類調査の想い出(No.210)

 ちゃっきりむし No.207 (2021年2月)

 シリーズ 昆虫のいた時代J
  山梨県旧六郷町のヒョウモンモドキ 諏訪哲夫

 1977年6月19日、高橋真弓さんは山梨県西八代郡市川大門町(現在では市川三郷町)堀切から近萩へ行く峠付近でヒョウモンモドキ1♀を採集した。これを聞いてかなりの驚きを感じたが、やはりいたのかという気持ちも半々あった。というのも1960年代の始めからおよそ10年間、高橋さんが採集した地点より2-3q北東にある四尾連湖周辺ではいくつかの記録がすでにあったからだ。そのほかに会報ちゃっきりむし36(1978年発行)に「謎の記録―市之瀬のヒョウモンモドキ」と題して、清邦彦さんが、『県立富士高校の生物部員の大橋勝之さんが採集した、"1959年6月14日、市之瀬"と書かれたラベルの標本が学校にあった。しかしこの市之瀬が現在の身延町の市之瀬で違いないのか確認できなかったけれども』と書いておられる。さらに別の情報として、今となっては私の記憶も定かではなくなっているが、清水区の、ある高校の生徒が市川大門町南部の丘陵で採集したという情報を聞いたように思う。そのようなことから、四尾連湖から南に7-8q連なる丘陵地にはやはりまだ生息地があるのだという思いを強くした。

 1978年6月11日、身延線甲斐岩間で電車を降りて旧下部町(現在身延町)の樋田川沿いに歩き、市川大門町との境界を過ぎ、堀切集落を通って峠に出た。峠の近辺が高橋さんの採集地点であるらしいが、生息していそうな草原は見つけられなかった。峠は十字路になっていて、右折すれば四尾連湖へ、まっすぐ行けば近萩へ降りるが、この日は左に折れて南下する六郷町への尾根道を選んだ。この尾根道はかつてホシチャバネセセリ、ヘリグロチャバネセセリ、ハヤシミドリシジミ、ゴマシジミのほかキマダラモドキなど現在では絶滅危惧種にランクされている種が多く生息していた屈指の採集地である。駿河の昆虫の報告によく登場する680m三角点(現在の地形図では標高点になっている)は2005年ころまではギフチョウもいた。この日は前述のチョウには時期が早かったため、ウラナミアカシジミ、ウラゴマダラシジミなどしか採集できず、時々雨も降り、陽も差す不安定な天気であまりチョウのいない尾根道をだらだらと下って行った。やっぱりここにはいないのか、もう少しで寺所(てらどこ)の集落に入ってしまう。そうなれば良さそうな環境はますます少なくなるだろう。ちょっと無理だなとあきらめかけた。例の三角点を過ぎると道が4-5回スイッチバック状に屈曲するところに来た。20mくらい先のノアザミの花に茶色いヒョウモンらしきものが吸蜜している。これはまさしくヒョウモンモドキに違いないと思った。近寄るとまぎれもなくヒョウモンモドキであることは裏面の模様で分かった。と同時に慌ててネット振っていた。緊張し、慌てたためだいぶチョウとはかけ離れたところを振ってしまった。驚いたチョウはふわっと飛び立って斜面を下って行ってしまった。でもスイッチバックしている道だからチョウが逃げて行った方向に曲がっている。再び見つけることはできそうだと楽観的に考え、気を取り直して早足に下って行った。200mくらい歩いただろうか、何と道路わきのノアザミの花で再び吸蜜しているではないか。同じ個体であろう。今度は慎重に網を振ったことは言うまでもない。新鮮とは言えないオスの個体であった。久々に手が震えた。

 ヒョウモンモドキは種の保存法に基づき国内希少野生動植物に2011年指定され、山梨県の2018年版レッドデータブックでは絶滅したとされている。

 ちゃっきりむし No.208 (2021年6月)

 シリーズ 昆虫のいた時代K
  富士山麓にたくさんの蝶がいた頃 渡邊 定弘

 小学校5年(1947)の春、兄の所属する富士中生物部の一行が白糸原の実家に休息に寄りました。兄は植物専門なので植物採取,標本の作り方等はよく見ていましたが、蝶を専門にしていた上瀧さんの採取品を見て驚きました。白い蝶はモンシロチョウ程度の知識でしたが、繊細な羽をもつヒメシロチョウ、だいだいの色を羽の先端に付けたツマキチョウ、模様の素晴らしいサカハチチョウ春型、新しい感動の世界を私に与えてくれました。これが私の蝶にはまる契機でした。中学(1950)は市内の叔父の家に下宿することになりました。入学祝いに貰ったお金を持って東京の志賀昆虫に行くときの胸のときめき、展翅台、昆虫用針、ポケットに入るスプリングの捕虫網:天国でした。さらに林慶二郎先生の黒本:日本蝶類解説:本格的採取の開始です。最初は林先生のところに送って同定確認していただきました。

 ゴイシシジミは西麓地域では広く分布し富士宮浅間神社裏の笹では毎年発生していました。アブラムシでの飼育を初めて経験しました。(白糸滝産のホシの流れた個体・林先生に送りました。ほとんど同じものが藤岡図鑑に出ております。)(県境近くのスジボソヤマキチョウ、大きいのがあったので送ったら、ヤマキチョウが分類上分かれてからの初めての静岡県産のヤマキチョウではないかとのことでした。人穴のホシチャバネセセリ、ギンイチモンジセセリもこの地域では初めてとのことでした。)

 富士高校では生物部に入り一年目の夏二軒小屋を超え南アルプスの学術調査の一員として参加して多くの人々を知ることができました。

 私のフィードルは富士急バスの沿線の山梨県境からの富士山西南麓、田貫沼、沼久保、明星山、柚野、芝川でした。採取は徒歩、自転車、バス利用です。富士高校で生物部の部長をしていましたが高橋さんから「静岡昆虫同好会」のお話があり、静岡高生物部と富士高生物部が協力する形で会員を確保し設立できました。

 当時の富士西麓の環境は、山林は戦中の木材の強制供出と戦後の復興の木材需要のため伐採され、草原や富士山の国有林の防火線(延焼防止の草地)も草焼きも行われ、良好な管理が行われていました。平原には流水の跡の荒れた河原があり、人穴地域も入植したばかりで、広い範囲が牧草のない草原でした。人穴から11番国有林に入る林道沿線、その先にある防火線の草地、落葉樹林を伴うこの場所は、私の大事な採集ポイントでした。ホシミスジやミズイロオナガシジミ、アカシジミ、ヒメシロチョウは多産していました。しかしホシチャバネセセリ、ギンイチモンジセセリの数は非常に少なかったと記憶しています。明星山でやっと採取したチャマダラセセリもここでは多産していました。高原の荒れた河原にはミヤマシジミが広く分布していました。ヒメシジミはこの人穴ポイントではみられませんでしたが国道139号沿いの県境付近(本栖高原)には見渡す限りこの個体であふれていました。十里木のヒメシジミ(たしか星が連続した個体もあった)は土地の改変と共にアッという間に姿を消しました。

 最初のアサマシジミは人穴の防火線・またそこに行く道沿いで採取しました。静岡県での最初の記録とのことでしたが、なんとその次の日、諏訪さんが麓村落で採取されました。

 高橋さんと朝霧高原に点在するカシワ林にハヤシミドリシジミを目指し調査に行きました。何とか最初に採取でき面目を保ちましたが高橋さんのキマダラモドキ採取には驚かされました。この時樹液を吸いに来る蝶の性質と採取の仕方を初めて知りました。

 クロシジミはおよそ白糸・上井出の集落の中にもおり、この地域より標高の高い地域には広く分布していました。数は多かったです。ゴマシジミは横手沢集落から県境にかけて転々と多産地がありました。アサマシジミとゴマシジミはこれからの私の興味の中心となり、個体変異を知るべく県外の産地にも行くようになりました。諏訪さんや平野さんとのアサマシジミの調査が、山梨県のヒョウウモンモドキの多産地を見つける契機ともなりました。

 平地産のヒョウモン類はオオウラギンヒョウモン(大学時代宇治川で大量発生していました)とヒョウモンチョウ以外は大量に生息していました。オオムラサキは県境付近で採取したこともあります。

 高橋さんからウスバシロチョウが富士地区に記録がないが静岡地区の生息環境を知るため採取しに来ないかと誘われました。この体験から1週間後に富士養鱒場で見つけることができた。その後の富士山麓の分布の拡大等について富士高の後輩・清さんが研究を重ねられたことに感謝しています。

 既に承知のとおり、戦時中の木材の強制供出、戦後の都市復興のため多くの森林が伐採され、多肥で明るくなった跡地にカンアオイが急成長し大株になったため、ギフチョウが急増し分布を拡大しました。西の山(大倉ダムの上)・桜峠・芝川までのコースはギフチョウのゴールデンコース:採取する気になれば100頭くらいは軽くとれたでしょう。速足で尾根を歩いて目の前に来たものだけ採取しても、確か10頭以上は取れました。大倉ダム(の予定地の左岸の河原と崖の間に大株のランヨウカンアオイが群生していました。工事に入る前年の春これらの株とギフチョウを一時避難させようと10卵塊、ランヨウの苗と共に持ち出し、飼育しました。100体くらい蛹になり当地のランヨウの残ったところに撒きました)右岸の西の山の森林が数年後に伐採され、林内のカンアオイが大株になり、ギフチョウも急増しました。これが仇となり首都圏等からの心無い人が、一人で800卵近く採取する等(何かで見ました)、この地域での乱獲を招きました。

 天子山脈や沼久保・明星山など、当時国の進めた森林計画:広葉樹林までスギヒノキを植えた政策とその後の森林管理の手抜き、地域開発等によりにより減少したカンアオイ! 田貫湖から岩本山までの広く大量に生息していた本種もほぼ絶滅への道を歩んでいます。

 分布調査、変異調査を中心にしていたため中学・高校・大学時代の採集した蝶は三角紙標本と貧弱な標本箱のため今ほとんど失くしたのが残念です。

 (戦後北海道で分布地が不明だったツマジロウラジャノメの日高山脈での分布地発見、林先生も大変喜ばれ先生の自宅に招待されました。ここには藤岡さんたちもきておりました。このことで残念なのは帯広の小野さんに差し上げた本種の内の1頭がカムイエクウチカウシ産を糠平産と間違えたことをお伝え出来なかったことです。調査においてラベルの大切さの重要性を体験しました。)

 県にいたとき、第2東名・中央道の都市計画決定、環境アセスも担当しました。静岡総研専務理事の時代、一般者の立ち入りが禁じられているインターチェンジや道路の法面にカンアオイを植える計画を作り、清さん高橋さんに文章まで書いていただき、パンフレットまで作りましたが実現されませんでした。清水から山梨までのギフはこれが実現されていれば守られたと、力不足に後悔しております。

 今造園のため樹木が日本各地を移動しています。富士宮でホシミスジの夏型を採取したことありますがこれが原因と思います。従弟の渡邊守からの話ですが大石寺のある1本のサクラに一時メスアカミドリシジミが群生していたこともあったようです。遺伝形質の違う他産地のオオムラサキを学校で飼育し放蝶することなど、とんでもないことが行われていました。

 人間が適度に手を入れたため生き延びた蝶!消滅する蝶!自然との共存・生物多様性維持の難しさを感じます。今兄の理想、間伐地の下層植物に、伊豆半島から丹沢、箱根、愛鷹山、富士山麓等に分布するフォッサマグナ要素植物の現地産原種を集め、生体保存育成し、次代に生きた遺伝子を残すことを目指した森林づくりに参加、協力しています。内野・原・狩宿産のランヨウも増殖しておりますが、春の女神の居ないのが残念です。

 絶滅危惧種もちょっとした人間の工夫で次代に受け継ぐことができると思います。この4月で84歳、高橋さんはじめ多くの先輩・蝶友により、心の充実した人生を送らせていただいております。

 ちゃっきりむし No.209 (2021年10月)

 シリーズ 昆虫のいた時代L
  箱根西麓「三島市芙蓉台」周辺の自然 谷川久男

 私は1970年まで静岡平野にある谷津山の南側の春日町(現在の葵区春日)で過ごした.1950年代から60年代,小学生の男の子の遊びの一つは虫取りで,当時の春日町には田んぼや畑が残っていて,オケラ,オタマジャクシやザリガニを採って遊んだ.空地もあって秋にはキチキチと音をたてて飛ぶショウリョウバッタのオスを追った.谷津山ではセミ採りをした.釣具店で売っている直径10pほどの小さな網を釣り竿の先端に付けたものがセミ採りの道具だった.また,山肌が出た5メートルほどの高さの崖があり,そこを上る冒険もした.子供たちの遊び場に囲まれた場所だった.高校に入ってチョウの採集を始めると,谷津山はチョウの採集場所となった.私の家は谷津山とは直線距離で100mほどのところだったので,谷津山で発生したとみられるアゲハ類の他,サトキマダラヒカゲ,ゴマダラチョウ,キタテハなども飛んできていた.

 就職し1980年に三島市芙蓉台に移り住んだ時,静岡市谷津山周辺とは異なる環境に魅力を感じた.谷津山には無かったクヌギ・コナラの雑木林が広がり,平地性ミドリシジミ類などのチョウが見つかるとの期待が膨らんだ.実際に家から最も近い雑木林の中に入ってみると踏み分け道が通じていた.クヌギ等の樹液に集まるカブトムシ,クワガタムシを採るために人が入っている証拠だった.町内の街灯の下では朝早くにカブトムシが転がっていることもあった.子供の頃には見ることがなかったカブトムシ,クワガタムシなどが身近な存在となった.当時は勤務時間が16:00までだったので,平地性ミドリシジミ類が発生する6月頃は2時間近く採集に歩き回る時間があった.急いで帰宅し散歩道を歩くと,ミズイロオナガシジミ、ウラナミアカシジミがどこでも見られた.クリの花をたたくとオオミドリシジミ、アカシジミも飛び出した.少ないながら笹原もあり,オオチャバネセセリは成虫だけでなく,幼虫の巣も容易に見つかった.また,谷津山は静岡平野の中で孤立していたが,芙蓉台は高台にあり箱根外輪山と繋がっている.標高の高いところで発生したチョウが移動してくることがあり,ヒメキマダラヒカゲやミドリヒョウモン,メスグロヒョウモンなどの大型のヒョウモン類が記録でき,庭に植えたアワブキではアオバセセリが発生したこともある.町内にはまだ家が建っていない区画が残っていてススキが生い茂り,現在では芙蓉台内では見られなくなったジャノメチョウが飛んでいた.その他の記憶に残っている昆虫では,庭のイチジクを切る原因となったキボシカミキリの発生があり,ナガサキアゲハの幼虫を初めて見つけた庭のユズは根元をカミキリムシの幼虫が一回りして枯れてしまった.メダカを飼っていた時には衣装ケースを利用した水槽にイトトンボが発生したこともある.引っ越した頃は夕方庭仕事をしているとブヨ(ブユ)に悩ませられた.近くに発生可能なきれいな流れがあったのだろう.敷地の境界は自然石が積み上げられていて,石の隙間に逃げ込むアオダイショウを見たこともある.人の手が程よく介在したいわゆる里山に取り囲まれたところで,住宅地である芙蓉台の中にも周囲の里山環境の影響が現れていた.

 2020年、芙蓉台に移り住んでから40年の節目となったので,区切りとしてこの間にチョウを取り巻く環境がどう変わったか調べることにした.この40年の間に大きな環境変化が起き,昆虫類が少なくなったと感じていた.芙蓉台よりも少し標高が高い場所に1000戸規模の大きな住宅団地ができたのである.当然ながら工事用道路が必要になるので,三島市と裾野市をつなぐ県道から住宅団地までの道路が建設された.道路ができて便が良くなると道路沿いの開発が進んで,雑木林は畑に変わっていった.農家の畑だけではなく,家庭菜園になる場所も出てきた.かつてのクヌギ・コナラの雑木が残ったのは耕作地に適さない谷筋や急斜面で,これらの雑木林は今や樹高が10mを超えるほどの林になっている.管理された雑木林はなくなり,林床には笹などが生い茂ってとても入り込むことなどできない状態である.更に,芙蓉台の住人は年齢層が高くなってカブトムシなどを求めて雑木林に入り込む子供達もいなくなり,踏み分け道はなくなった.また、散歩道として残っている所も高くなった樹木が上空を覆っている.このような環境変化の結果,平地性ミドリシジミ類は大幅に減少した.ウラナミアカシジミは見られなくなり,アカシジミ,オオミドリシジミも滅多に見られなくなった.健在なのはミズイロオナガシジミで,少数であるが毎年確実に見ることができる.ツマグロキチョウ,オオチャバネセセリ(注;2021年6月15日三島市徳倉で採集)も気が付いた時には消えていた.

 1980〜90年頃には55種類のチョウを記録しているが,ここ3年の観察では10種類近くが見られなくなっている.イチモンジチョウ,ミヤマセセリなどは記録できたものの滅多に見られないほどに少なくなった.一方で新たに見られるようになったチョウもあり,南方系のナガサキアゲハ,ムラサキツバメ,ツマグロヒョウモンは我が家の庭でも発生する常連のチョウとなった.結果としては,遇産種を除くとチョウの種類数としては以前とあまり変わっていない.チョウ以外の昆虫では,鳴き声の大きなアオマツムシ,庭のタラノキを集団で食害するアオドウガネなどが新たに住み着くようになった.捕虫網を持って歩いていると出会った人から何を採っているか聞かれる.チョウと答えると「チョウ.最近見なくなったね」と返ってくることが多い.一般の人もチョウが少なくなったと感じているようだ.

 庭で見られる昆虫に対しては基本的に殺虫剤を使わず,そのままにしておくようにしているのでいろいろな昆虫が見られるが,中には好ましくない昆虫もいる.それらについても述べておこう.芙蓉台は分譲時にツバキとツツジが植えられていて,今でも庭木として残っている.ツバキ,サザンカにはチャドクガが発生する.私はチャドクガには弱く,医者にかかるほど酷くかぶれたことが何回かあるため,幼虫の集団を見つけると若齢幼虫の集団のうちに枝ごと処理する.また,プラムが時々丸坊主になることがある.モンクロシャチホコの幼虫によるもので,チャドクガのようにかぶれることはないが,あの黒い幼虫の集団は気持ちのいいものではない.チャドクガと同様集団の時に処理している.ツツジ,サツキにはルリチュウレンジハバチが発生する.この幼虫も集団でツツジの葉を食べ,気が付いた時には枝先が丸坊主になる.卵の段階で見つけて,その段階で退治している.

 現在の三島市芙蓉台周辺は引っ越してきたときに感激したような環境ではなくなり,見られなくなってしまった昆虫もあるが,市街地に比べればまだ多くの昆虫が見られる.メジロ,シジュウカラ,ウグイス,コジュケイなどの鳥の鳴き声も身近に聞くことができ,まだまだ自然が豊かである.40年前に比べると残念な状態になったが,せめて今の環境が残ってほしいと思う.

 ちゃっきりむし No.210 (2021年12月)

 シリーズ 昆虫のいた時代M)
  南アルプスでの蝶類調査の想い出 高橋真弓

 「燕岳に登る」という文章を、私は1945年の秋、当時の国民学校(現在の小学校)5年のときに国語の時間に学んだ記憶がある。北アルプスの燕(つばくろ)岳から蓮華・鷲羽・水晶・五郎と連なる高山地帯の風景描写があり、私はこれらの山岳にどんな"高山蝶"が棲んでいるのか想像を回らせたものである。

 高校時代に、ほぼ富士川を境として、静岡県の蝶類分布が東西で大きく異なることに気づいていた私にとって、南アルプスに登って蝶を採集・調査することは大きな夢であった。

その夢が実現したのは、静岡大学に入学した1953年夏のことであった。そして私は20年間以上にわたって、毎年のように南アルプスへ採集・調査に出かけ、その成果を「駿河の昆虫」に、"大井川水源地方蝶類分布調査報告"として1986年発行、135号の第23報まで発表している。

 南アルプスの調査で忘れられないことは、1963年1月、当時南アルプス各地を踏破し、ベニヒカゲなど"高山蝶"の詳細な記録を残された石川由三さんが23歳の若さで遭難死されたことである。同氏の調査報告は「駿河の昆虫」にしばしば発表され、特に43号の遺稿集はまさに歴史的光彩を放っているといえよう。改めて同氏のご冥福をお祈りするしだいである。

 その後、私は南アルプスの"高山蝶"の起源を求めて海外に出かけ、極東ロシアの沿海州や東シベリアのマガダン、ヴェルホヤンスク、そしてモンゴル、キルギスなどでの採集・調査を体験し、特に東アジアでの日本産"高山蝶類"の生物地理学的な位置づけを試みている。

 つぎに、ことし87才となった私の若い時代に体験した南アルプスでの蝶類調査の想い出を4項目にわたって紹介したいと思う。近年の気候変化に伴う蝶相変化を考えるために何らかのお役に立てばさいわいである。

1.転付峠を越えて南アルプスへ
 1953年8月7日から10日まで、3泊4日の日程で、私は当時の静岡生物同好会の採集調査会に参加し、あこがれの南アルプスを訪れることになった。植物の分類学・生物地理学をご専門とされる杉本順一先生をはじめ、十数名が参加した。そのうち、当時の静岡昆虫同好会の会員としては、私のほか、高校生の朝比奈章悟、橋爪一敏、渡辺定弘さんらがそのメンバーとなった。

 転付峠は静岡県と山梨県との境界にある標高ほぼ2050mほどの峠で、山梨県側の新倉の500mから標高差1500mを越える高さにある。そして静岡県側の標高1450mの位置にある二軒小屋に下だるのである。その峠道はよく整備され、ところどころに休憩所に木で組んだベンチが置かれていた。ジグザグの登りは傾度が好適で疲れを感じさせなかった。このような昔の山道に比較して、その後の「静岡国体」前後につけられた山道は、"登山はスポーツである"という思想をもとにできているので、"効率万能"の急登が多く、山道としての価値が疑われるものが多い。

 峠を越えて二軒小屋で一泊、その翌日の8月8日、大井川上流西俣を往復した。悪沢渡、蛇抜沢などを過ぎてさらに中俣出合いから小西俣あたりまで足をのばした。まず驚いたことは、"高山蝶"ミヤマシロチョウの群飛であった。青紫色のクガイソウ、白色のミヤマイボタなどの花に群集し、緩やかに飛ぶ"高山蝶"との初めての出会いに深い感動を覚えたものである。標高ほぼ1600mの蛇抜沢あたりから"高山蝶"ベニヒカゲが姿を現わし、さらに1700mの新蛇抜沢で"高山蝶"クモマベニヒカゲが出現した。

 こうして同じ日に3種の"高山蝶"に出会うことができたのは本当にしあわせであった。そして転付峠を境とした蝶相の鮮やかな対比に驚いたものである。

2.荒川三山と2種のベニヒカゲ
 転付峠から残雪をいただく南アルプスの高山帯を初めて眺めた1953年から5年を経過した1958年、私は当時24歳で清水区(当時は清水市)のある高校に勤務していた。

 この年の8月3日から6日まで、3泊4日で、5回目となる転付峠越えで二軒小屋に入り、そこから千枚岳〈2879m〉への急登を経て、日本第5位の高峰・荒川東岳〈3141m〉から荒川小屋に降りてここで一泊、翌日同じコースで二軒小屋まで往復した。このときに参加したのは高校生の福知治、三浦位通、前島規雄さんらであった。転付峠や千枚岳などの苦しい登りは"60歩登法"と名づけた、ゆっくり60歩登って3呼吸、25分登って5分間休憩、というぐあいに"がんこなドイツ人"のようにこれをくり返すと、疲労が少なく、意外に早く目的地に到達することができた。

 千枚岳に近づくと、オオシラビソなどから成るうっそうとした亜高山性針葉樹林帯がダケカンバの疎林となり、その疎林の間やその周辺にミヤマトリカブト、ミヤマシシウド、ハンゴンソウ、ミヤマホソエノアザミなどの高茎草本から成る"お花畑"が現われ、このような森林限界の高茎草原はクモマベニヒカゲのおもな生息地となっていた。他の一種ベニヒカゲもここに生息していた。

 荒川東岳から中岳にかけては、登山道が山腹を巻くように荒川小屋まで続いている。この乾燥した急斜面にはイネ科・カヤツリグサ科を主体とした草原が広がり、ここにはもっぱらベニヒカゲのみが生息し、キク科のタカネコウリンカの花によく集まる。この花は総苞が黒かっ色で、遠方から見るとベニヒカゲがとまっているようにも見えた。このような典型的な高山草原にはクモマベニヒカゲは生息していない。このような両種の生息地の相違などを「駿河の昆虫」24号、「蝶と蛾」14巻3号などに報告した。

3.亜高山帯の蝶、オオイチモンジ・コヒオドシ・クモマツマキチョウ
 これらの3種は"高山蝶"として知られているがいずれも高山帯には生息せず、おもに亜高山帯に生息する。南アルプスでは北アルプスに比べて個体数が少なく、いずれも"希少種"となっている。

私自身、オオイチモンジとの初めての出会いは、1956年7月27日の午前に西俣の悪沢渡のあたりで1♀を目撃し、同日午後二軒小屋下の大尻沢付近のドロノキの梢高く緩やかに旋回する1♀を目撃したときであった。

 それから9年たった1965年7月28日の朝、東俣の曲輪沢から徳右衛門沢に向かう途中にあった中村組作業所の建物の前に自生したサワグルミの小木の葉上に翅を閉じてとまっている1♀を初めて採集した。その翌年の1966年、こんどは直翅目など昆虫の広い分野に深い知識を持たれる杉本武さんとともに、10年前に1♀を目撃した大尻沢でドロノキの高い梢から降りて小木の上を緩やかに飛ぶ1♀を採集し、この植物の葉の先端に、特殊な食痕とともにこの蝶の1齢幼虫を観察することができた。その写真は保育社の「日本昆虫生態図鑑V〈チョウ編〉」に掲載されている。

 コヒオドシも南アルプス南部では極めてまれな種で、まず1955年8月17日、ベニヒカゲの著名な研究者故木暮翠さんと東俣をさかのぼったとき、路上にとまった1♂を、翌年の1956年7月27日、西俣で1♂を採集している。さらに1961年8月13日、宇式和輝さんと調査した赤石岳北斜面で1♂を採集している。

 クモマツマキチョウはこれらの2種よりも分布が広く、南アルプス周辺の北遠白倉川上流や安倍川上流大谷崩付近に分布していた。私のもっとも印象深かったのは、1966年5月5日、東河内の上流の河原で1♂を採集し、また1969年4月29日、畑薙第一ダムの左岸で1♂を採集したときであった。故石川由三さんは1959年に西俣での多産を報告している。

4.南アルプスの「前衛」
 南アルプスの中でも比較的南側に位置する山々は「南アルプスの前衛」とも呼ばれ、その本体の赤石山脈よりも山道の整備が不十分で、その調査は1966年以後に持ち越された。

 1966年8月5日、私は杉本武さんの協力で中ノ宿から赤崩南側の池の平と呼ばれる水場に一泊し、ここから赤崩上の尾根沿いに青薙山頂上〈2406m〉まで往復した。ほぼ全域コメツガ・シラビソなどから成る常緑針葉樹林に被われているが、ところどころにある小崩壊地上の草原にクモマベニヒカゲとベニヒカゲが見られ、前者が優勢であったが、あと1週間もすれば優劣の関係が逆転したものと思われる。なお8月6日の朝、私はテント場の付近で占有行動中の静岡県では珍しい種とされるジョウザンミドリシジミ1♂を採集している。杉本武さんはこの水場の近くで、カエデの小木からミヤマカラスアゲハの蛹を発見された。

 大無間山は故石川由三さんが1959年9月11日にベニヒカゲを初めて採集された山である。頂上の標高は2329m、全山常緑針葉樹林に被われ、頂上にやぐ ら方式の展望台があった。

 私は1966年8月11日、寸又峡温泉に一泊し、そこから寸又川をさかのぼって山稜にとりつき、さらに大垂沢小屋に一泊して、そこから頂上まで往復した(8月13日)。山道はしっかりつけられていたが風倒木が多く、大変苦労して汁垂小屋跡を過ぎて頂上への登り口に到着した。ここにはアザミ類を含む高茎草原が広がり多数のベニヒカゲが群飛していた。この地点は地理的位置から考えてクモマベニヒカゲは生息していないものと考えられる。

 さいごに青薙山北方にある農鳥山脈の雄峰笊ヶ岳〈2629m〉。1986年、同じ学校に勤務していた伊藤勇夫、小島守先生らとともに、8月15日、所ノ沢小屋付近でのテント泊、翌16日に笊ヶ岳に登った。布引山〈2584m〉に近づくと尾根の小さな草原にクモマベニヒカゲとベニヒカゲが現われ、この2種は大笊(頂上)と小笊の二峰の間に生じた急斜面の高茎草原に群飛していた。

このほか南アルプスには多くの楽しい想い出があり、それらの体験が私の蝶類・生物地理学研究を支えているもののひとつと考えることができる。