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<Webちゃっきりむし 2001年 No.127〜130>

● 目 次
 会則・事務局を変更  同好会新体制へ (No.127)
 ゆずりは 杠 隆史:人との出会い 〜わが虫屋人生〜(1)  (No.128)
 ゆずりは 杠 隆史:人との出会い 〜わが虫屋人生〜(2)  (No.129)
 鈴木英文:ムラサキツバメ,スーパーインフレ (No.130)

 ちゃっきりむし No.127 (2001年3月26日)

  会則・事務局を変更 同好会新体制へ

 静岡昆虫同好会は,高校生物部の昆虫班が活発であった頃,高校の枠を超えて昆虫少年たちが集まり,48年前の1953年5月6日に発足しました.その後長い間高橋真弓幹事を代表とし,また事務局も高橋代表宅に置いてきました.しかし,2001年度より高橋代表が日本鱗翅学会の会長に就任し,ますます多忙な状態になってきました.そこでこれを機に事務局を移転するなど,高橋代表の仕事を役員で分担てゆこうではないか,またそれに合わせて会発足時の1953年に制定された会則を実情にあわせて改訂しようではないか,ということが役員の間で話し合われました.そこで次頁に掲載したように会則を改訂し,3月11日の総会で報告されました.

 まず,事務局は諏訪哲夫宅とします.
 役員はこれまで「幹事」だけでしたが,会の代表は「会長」とし,会計監査を行なう「監事」が設けられました.
 また,会の運営は幹事会で決められたことを総会の席上で承認を得る形で行なわれてきましたが,総会の成立条件その他実状を考えるとそのようなやり方は本会の運営になじまないため,事業計画,会計,次年度の役員などは役員会で決定し,総会に報告する.会員は総会で意見を述べ,それについては役員会でまた考えてゆく,というような運営方法になります.
 会費,会誌,会報,行事などでの大きな変更はありません.     (清)

 ちゃっきりむし No.128 (2001年7月10日)

  人との出会い 〜わが虫屋人生〜(1) ゆずりは 杠 隆史

 季刊「ゆずりは」月刊「ゆずりはクラブ」を発行し始めてから3年目になります.ご愛読いただいている方々には心より感謝いたします.

 私は以前,灘の日本酒メーカー,日本盛株式会社に勤めていました.季刊「ゆずりは」の裏表紙に日本盛の「惣花」の広告が出ているのは,そのためです.1996年12月,蝶の趣味や同好会の幹事活動を続けることが難しい東京への営業職への転出という人事異動の内示があり,蝶の趣味と自分の専門性(人事教育と品質管理)を大切にしたいと思い,すったもんだの末,本社に残ることができました.しかし,内示撤回の反動は当然あり,不本意なことが重なったため,多くの人に相談し熟考した上で,1998年3月末に45歳で早期退職制度を活用してフリーになりました.当初は,昆虫関係の仕事をするようになるなどとは夢にも思わず,教育コンサルタントとして自立しようと考えていました.ところが,6月に蝶研出版の小路さんが急逝,「後を引き継ぐように」という周囲の声に後押しされただけでなく,長谷純さんのようにロンドンから原稿を送ってくれるなど,まわりは私が引き継ぐことを前提として動き始めました.ところが様々な難しい事情があって,結局この話はなくなりました.しかし,チョータローさんの「季刊誌を出しましょうよ.ボクも書きますから」をはじめ,新しい本作りのムードが盛り上がってしまって後へは引けなくなり,以前から同好会レベルにとどまらず虫の世界に何らかの貢献ができればいいなあ,と漠然と思っていたこともあり,これは一つのチャンスと考えて本作りを決意しました.親友の一人,今森光彦君はよき相談相手で「すばらしいデザイナーを紹介するから,これまでにないような表紙にして中身もいい本を作らへんか.記事も協力するわ」と.そして村田泰隆さんは快く写真の提供を引き受けてくださっただけでなく,本のタイトルも数多くご考案いただきました.渡辺康之さんは「ユズリンがやるから協力するんやで」と強力な支援をしてくださいました.また大阪昆虫同好会のメンバーや札幌の川田光政さん,青森の工藤忠さん,仙台の千葉秀樹さん,山形の横倉明さんをはじめ,全国の仲間が様々な協力を申し出てくださいました.多くの昆虫仲間の力があって初めて誕生した本だったのです.

 一方,コンサルタントの仕事も1999年半ばからコンサルティングや研修の依頼が入り始め,昨年の研修実績は100日近くにもなり,現在は二つの仕事を両立すべく日々励んでいます.

 去る5月18日,NTTドコモの研修を静岡でやることになったので,北條篤史さんに連絡しました.北條さんには今春の蝶類学会で初めてお会いしたばかりなのに,「静岡のメンバーに声をかけておきますからぜひご一緒しましょう」とお返事をいただきました.あつかましくも「翌日は土曜なので,クロコムラサキやミヤマシジミなどを見たいのですが,荷物がいっはいで」とお願いしたのですが 「ネットなどはすべて準備しておきますから,体一つでお越しください」との有り難いお言葉に感激し,静岡入りしたのです.宿まで手配いただき,研修終了後に「マイホテル竜宮」で北條さん,高橋真弓さん,清邦彦さんにお会いしました.清さんとは初対面でしたが,北條さんお勧めの居酒屋「大作」ですっかり打ち解け,皆さんとの楽しい話に酒が進みました.静岡でもこの店でないと食べられないというイルカの薫製をはじめ,生じらす,桜海老などを勧めてくださり,そのお心遣いには心から嬉しく思いました.翌日は,北條さんと清さんにご案内いただいた上,おいしい蕎麦までごちそうになりました.帰りの新幹線の中でビールを片手に,楽しい時間を反芻しながら,あっという間に10年来の付き合いのようになれる虫屋の世界はすばらしいなあとつくづく思い,これまでの私の人生には多くの方々との出会いがあり,皆さんのおかげで今このようにしていられるんだなあ,ありがたいなあと思った次第です.今回,清さんに「ちゃっきりむし」の原稿を依頼されましたので,ここで,私の虫にかかわる人々との出会いを振り返ってみたいと思いますので,しばしお付き合いください.

 私が昆虫採集を始めたのは,小学校の低学年.近所に昆虫をやっている井上さんという高校生がいて,近くに連れていってくれたり標本作りを教えてくれました.通っていた兵庫県芦屋市の岩園小学校では,今でいう夏休みの自由研究にはかなりの数の昆虫標本が提出され,私も六甲山で採ったものを出しました.それは,決して立派なものではなかったのですが,名前がわからなくてそのまま出していたセミを,ある男子が「これはコエゾゼミ.珍しいんだよ」と言ってくれ,たいそう嬉しかったことを覚えています.

 神戸の私立六甲中学に進み,生物部に入部.立山に山小屋があり,夏合宿で部員が採ってきたミヤマモンキチョウが何箱もあってびっくりしました.同級生に昆虫好きが二人いて,しのぎを削っていた彼らの影響で私も本格的な採集をするようになり,箕面や能勢にも行きました.落第さえしなければそのまま高校に進学できたので,勉強はそこそこで,授業中はいわゆる「横山図鑑」を読みふけり,あの叙情的な文章にずいぶん刺激を受けたものです.

 高校を卒業し一浪後に神戸大学に入ってからは,理系にもかかわらず授業はサボり,12月は当時でも20万円ほど稼ぐことができた百貨店の歳暮の配達のアルバイトを毎年やり,1年間の採集旅行の費用をつくりました.そして1973年3月には初めての長期遠征で八重山に行きました.そこで石垣島の「なぎさ荘」で今森光彦君に出会ったのです.それ以来,彼とは信州で数日キャンプしたり,北海道に20日間,シュラフをかついで出かけたりして青春時代を楽しく過ごしました.世界的写真家となった現在でも,毎年最低1回は大津市の里山にある彼のアトリエで虫仲間とともに楽しい集いを開いています.彼からは生態写真のイロハを教えてもらい,一時ネットを持たずに写真を撮ったものです.自分の腕はたいしたことはありませんが,写真を見る目は「今森仕込」だと勝手に思っています.
                             (次号につづく)

 ちゃっきりむし No.129 (2001年10月22日)

  人との出会い 〜わが虫屋人生〜(2) ゆずりは 杠 隆史

 大学時代にはもう一つの大きな出会いがありました.それは「ゆずりは」に「屋久島の四季」を連載されている中田隆昭さんです.彼とは1975年3月に台湾・南山渓で出会いました.当時はなぜか関東への抵抗感が強かったこともあり,関西弁をしゃべる同士が海外ですぐに仲よくなったのかもしれません.彼はコガネムシ屋ですが,その後何度か一緒に台湾に行ったり,彼の結婚披露宴の司会をしたり,ずっと親しい付き合いが続いています.彼は夫婦で大阪府の教員をしていたのを辞め,現在は屋久島に移住してエコ・ツアーのガイドをしていますが,わたしの長女と彼の長男が共に1982年3月8日に誕生したことにも深い縁を感じています.

 就職してからの出会いも大きなものがあります.日本盛の会社案内には,「1〜9月は週休2日」とあり,これなら蝶の採集ができる,と初任給などの額はどうでもよく,ここに決めたのです.ところが入ってみると蝶をやるどころか,早く一人前になるのが精一杯で,就職した1977年はほとんど採集には行っていません.村田泰隆さんが「蝶の趣味を続けるには,人生の三大難関である受験,就職,結婚をクリアーしなければなりません」とおっしやっていましたが,あのままだと中断あるいはやめていたかもしれません.ところが,向井静夫さんという当時生産本部の取締役をされていた方が「杠君の趣味はすばらしい.一芸に秀でるものは多芸に通ず,という.ぜひ続けなさい」と言葉をかけてくださり,1978年7月末からの台湾旅行にも快く休暇の許可をくれたのです.現在は,北九州におられますが,「ゆずりは」をご講読いただいています.

 一時台湾の蝶を熱心にやっていましたが,1982年から再び国内に目が向きました. 1976年に今森君と行って以来の北海道に1984年に家族で行き,オオイチモンジ♀の大収穫など,北海道に強い魅力を感じるようになりました.このころから故・小路氏とは活発な情報交換をするようになり,彼の蝶研出版の立ちあげにはできる限りの協力をしました.「ギフチョウ88ヵ所めぐり」の「北海道採集ガイド」の執筆や,「蝶研フィールド」のセールスなどなど…….そして「蝶研サロン」の「採集情報」欄に,いかに多くの質のよい情報を提供するか,ということが私の日本の蝶への情熱をかき立てました.とりわけ新産地を開拓し,彼から「教えてもらえませんか」と言われることが何よりの楽しみでした.また,蝶研初期メンバーの「生き残り」,高嶋明君とも深い付き合いが続いています.彼は4つ年下なのですが,当時からとりわけ気が合い,プロの大切な採集場所を惜し気もなく教えてくれたり,様々な情報を提供してくれるという付き合いが現在も続いています.

 この間,渡辺康之さんや長谷純さんら大昆のメンバーをはじめ,採集旅行先で知合った方々とも親しくつきあっていただいています.村田楽隆さんとは年賀状のやり取りはかなり前からしていたのですが,面識はありませんでした.その後,長谷さんの紹介でお会いしてからまだ5年ほどですが,村田さんが大の日本酒党ということもあり,とても親しくお付き合いいただいています.教育コンサルタントという仕事の面においても,エクセレントカンパニーの社長としての考え方や姿勢など,大いに学ばせていただいています.何よりも私が会社を辞める決意をした時「私にできることがあれば何でもしますから,遠慮なく言ってください」という言葉は大きな心の支えになりました.その通り,本作りには全面的にご協力いただき,研修や講演時に「「村田製作所」を具体的事例として使わせていただいています.

 鳩山邦夫さんは,私の日本盛での最後の年に,突然職場に電話をいただき,周囲にいた役員をはじめ全員がびっくりしたのもよい思い出です.

 一人で2つの仕事をするのが,物理的・精神的にも限界に近づきつつあった一昨年暮れ,浜祥明さんが協力を申し出てくださいました.あまり表舞台にはでられませんが,季刊「ゆずりは」でも紹介いただいたとおり,奈良県のゴイシツバメシジミやベニモンカラスシジミの発見や生態解明をはじめとして,国内外で大きな業績のあるものすごい実力者です.人格的にも素晴らしい方で,心から頼りにしている存在です.

 前述のように45才で21年間のサラリーマン生活に訣別したのですが,何とも表現のしようがない不安感や精神的な重苦しさがありました.これは体験したものでないとわからないと思いますが,このとき特に応援してくれたのが西宮で整形外科を開業されている緒方正男さん,現在の事務所のオーナーでもある無量井忠吉さんら虫屋仲間です.コンサルタントとして独立すると,「仲間がいなくなって寂しい」「生の情報が入らなくなる」ということがよく言われるのですが,この点はこれまでまったく感じたことがありません.中には前田博さんのように勤務先の第一製薬の研修のセッティングをしてくれたり,自治体の接遇(ビジネスマナー)研修の参考にと,ホテルニューオータニでのマナーを教えていただいた吉崎孝さんをはじめとして,たいへんお世話になっています.サラリーマン時代,しんどいときやつらいとき,いやなことがあったとき,いつも虫仲間のことを思い浮べたり,時には相談し,そしてまた諌めてもいただいたのも虫屋さんたちです.

 まだまだ,お名前をあげたい方々や,虫屋ではありませんが,季刊「ゆずりは」の製作費の足しにと広告を掲載してくれている小学校から大学の同窓生など,大切な方々は多数いらっしやるのですが,紙面の都合もありますので,また別の機会に紹介したいと思っています.

 季刊「ゆずりは」の基本理念は「昆虫という趣味を通じての楽しく(精神的に)豊かな人生づくりに寄与する」ことなのですが,私自身が多くの方々から楽しさ・豊かさを享受させていただいています.これからも多くの方々との出会いを楽しみにしていますので,みなさんよろしくお願いいたします.

 ちゃっきりむし No.130 (2001年12月25日)

  ムラサキツバメ,スーパーインフレ 鈴木英文

 ムラサキツバメが浜松の館山寺で採れた,という情報は2000年の夏前には耳に入ったが,その後情報は絶え,迷蝶だと思われていた.そんな蝶を捜しに行くよりも,ナガサキアゲハの調査に追われ,それだけで手一杯だった.

 ナガサキアゲハの調査が一段落した10月の中旬,関東地方でのムラサキツバメの大発生の情報を聞いても,マテバシイがどんな木で,どこに行けばあるのかさっぱりわからない状態だった.そういえば10年ほど前,子どもを連れて浜松の中田島公園(遠州灘海浜公園)に行ったとき大きなどんぐりがたくさん落ちていたことを思い出し,行ってみたところ,見事に当たった.

 ここは環境も良さそうだし,これなら越冬可能だろう,静岡県での分布拡散の拠点になりそうだし来年が楽しみだ,浜松の蝶屋さんに来年は活躍してもらおう.

 年が変わり5月,6月とムラサキツバメが採れたという情報は全く入らない,だれかが調査に行っているはずだが,業を煮やして8月15日に中田島公園へ行ってみた.新芽は見あたらない,ひこばえにはアブラムシとアリがいるだけ.やはり越冬は無理だったか,とあきらめて帰ってきた.それが!

 9月9日の静昆談話会からことは始まった.菊池泰雄氏が,今日ここへ来る前に中田島で成虫を採集したという.なんとか生き残っていたか,というのがそのときの感想だったが,以後事態は急展開を始める. まず白井和伸氏から13日,18日に中田島と浜名湖近くの数ヶ所で幼虫多数を採集,天野市郎氏からも18日中田島で成虫幼虫多数との情報,19日入交修氏が天竜川東岸の竜洋町で採集,そんな中,平塚の美ノ谷憲久氏から,19日,22日伊豆半島の調査で,成虫幼虫多数とのEメールが入る.21日天野市郎氏により静岡市内で,23日清邦彦氏により掛川市での発見が伝えられると,あとは市町村単位でいかに多くの記録を出すかの競争に変わった.

 10月の前半までで,ほぼ記録は出尽くし,結果は「駿河の琵虫」196号に特集したように,静岡県74市町村のうち49市町村から忌録された.ムラサキツバメのスーパーインフレーション(大膨張)とでも呼びたいぐらいであった(価値の大暴落でもあったが).

 今年になってなぜムラサキツバメが大発生したのか,昨年は中田島と館山寺だけだったのか,もっと広く分布していたのに気が付かなかったのではないか,今になってはわからないが,やはり1998年静岡駅で採集されたころより少しずつ,我々の気が付かないうちに分布を広げ,今年の大発生に繋がったのだろう.

 昨年のナガサキアゲハといい今年のムラサキツバメといい初動捜査に遅れたことが悔やまれる.

 最後に上記2種にサツマシジミを加えた3種の静岡県への侵入ルートを考えると,高桑正敏氏がナガサキアゲハで指摘しているが,志摩半島から渥美半島,遠州灘を通って静岡県中部へ至る東進ルートの存在に注目したい.志摩半島に拠点が出来ると一気に静岡県中部に現われる現象は,ある時期一定方向(西から東に)に継続して吹く,風の道とでもいうべきものがあることが想像できる.

 次に静岡県にあらわれるものは何か,それは諸氏のご想像におまかせする.