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<Webちゃっきりむし 2008年 No.151〜154>

● 目 次
 高橋真弓:採集の勧めとその限界(2) (No.151)
 北條篤史:会長就任のご挨拶 (No.152)
  福井順治:奄美大島にて (No.153)
 宇式和輝:頂いた古い写真が語るものから(No.154)

 ちゃっきりむし No.151 (2007年3月8日)

  採集の勧めとその限界(2) 高橋真弓

1.採集が規制されている地域での採集
 国の法律または県市町村の条例によって昆虫の採集が規制されている地域があります.
 北海道大雪山の高山地帯や長野県上高地は申すまでもなく,静岡県下では南アルプスの海抜2500m以上の高山帯などは,国立公園特別保護地域に指定されていて,無許可での昆虫採集は禁止されています.
 長野県下では上記特別保護地域での規制の他に,9種の"高山蝶"が,県の条例によって県内のいかなる地域でも採集が規制されています.
 静岡県下では市町村単位の条例により,芝川町のギフチョウや浜松市引佐地域(旧引佐町)と天竜市枯山とその周辺のギフチョウを無許可で採集することができません.
 以上の採集規制のある地域で,実際には多少の採集をしてもその種の絶滅につながらない場合があるでしょう.しかし法治国家の日本において,私たちは常識ある国民として法律・条例を守る義務があります.それが"悪法"の場合は,そのきまりを守った上で,行政に対しその問題点を改めさせていかなければなりません.

 2.昆虫採集には社会の理解が必要
 昆虫採集は,自然に親しみ,しかも知的興味を満足させる健全な趣味であり,さらに自然科学の発展にも役立つものです.
 そしてこれには厳しいルールがあり,このルールを守ってこそ,社会の理解が得られるものと考えます.
 上記の採集規制地域での無許可での採集をひかえることはもちろんですが,みだりに他人の所有物である樹木を採卵のために切ったり,狭い農道に駐車して地元の人の通行を妨げたり,シイタケや果物などを黙って持ち去ったりしたのでは,社会の理解が得られるはずはありません.昆虫採集に悪意と偏見を持つ一部マスコミや一部の"自然保護"論者などは大喜びで,それ見たことかとばかり昆虫採集を非難することでしょう.
 私たちの採集行為には厳しい自己規制が必要ではないでしょうか.
 また私たちは狭い"マニアの世界"に閉じこもってはなりません.植物,魚類,野鳥そのほかいろいろな自然関係の人々とも日常的に交流し,それぞれの立場を尊重しあいながら,昆虫採集のしっかりとした位置づけをしていくことが必要となります.

 3.なぜ皆横並びで同じことをやりたがるのか.
 日本のアマチュア昆虫愛好家は,昆虫学の発展に大きく貢献していて,大学など研究機関で行われる専門的研究を下から支えていることは事実です.
 しかし多くの昆虫愛好家は,"平均的日本人"の通性として,流行に影響されやすく,皆同じ方向を向いていっせいに競争に走る傾向があります.○○で真黒いオオイチモンジが採れる,○○で後翅の黒帯の乱れたギフチョウが採れる,○○で1個余分な"目玉"の出るウラナミジャノメが採れる,というような情報にすぐに飛びつき,これらの産地に出かけて競争で採りまくる,というわけです.これに"ネット文化"が拍車をかけています.
 さいわい、私たち静岡昆虫同好会はこのような風潮に流されず、今日まで50余年の独自の歩みを続けてきました.
 上のようなマニア化した採集行為について、藤井恒さんが「月刊むし」422号(2006年4月号)に示唆に富んだ一文を書いておられますので、ぜひそれを読んでほしいものです.
 この文では、ギフチョウの分断され、隔離された小さな生息地では、“びん首効果"によって異常形が多く発生しやすく,このようなところで集中的に採集すれば、採集行為によってその地でのギフチョウが絶滅に追いやられるのは必死であること、それにこのようにして生じた異常型がどれほどの科学的意味をもつかは甚だ疑問であることを述べられています.私もこれにまったく同感です.
 昆虫のコレクションは,それ自体趣味としてすばらしいものですが、ただその時代の軽薄な流行や他人の作った規準などにとらわれずに,自分自身で考えた規準によって独創的なコレクションを作り上げたら如何でしょうか.私ぱ金太郎飴”のような没個性的なコレクションにはもううんざりです.
 “流行を追う者は流行に遅れる”.これは私の大好きな標語です.

 最後に,自分のコレクションは自分の死後散逸する前に、ぜひとも博物館など信頼のおける公共施設に寄付するという心がけが必要であると思います.これが自分の人生の中でお世話になった社会への最大の恩返しではないでしょうか.

 ちゃっきりむし No.152 (2007年5月27日)

  会長就任のご挨拶 北條篤史

 静岡昆虫同好会の皆様,このたび会長に選ばれました北條篤史でございます.

 静岡昆虫同好会は1953年5月に創立して,今年で55年目を迎えます.高橋真弓前会長は創立以来54年に渡り,代表,総務,会計,編集,と文字通り一人で会を運営されました.その後を引き継ぐのは大変な責任を感じますが,創立以来高橋さんと54年間,会で行動を共にしてきましたので,静昆精神(思想)は継続します.

 わたしは中学1年生で本会に入会して,静岡県の蝶の分布調査を続けてますが,安倍川,藁科川流域の調査が私の蝶への原点です.静岡県においても,この50数年で絶滅した昆虫が何種かあります.また絶滅危惧種もあり,安倍川,藁科川ではミヤマシジミの保全対策に努めてます.今後はこのような郷土の昆虫保全に対しても,皆さんと共に取り組んでゆきたいと思います.さらに静岡県の昆虫調査を進め「駿河の昆虫」をより充実した会誌にしてゆきたい.「駿河の昆虫」への皆さんの投稿をお願いします.

 郷土の昆虫調査と共に会員の海外での調査における成果が大変上がってます.これらの調査結果を発表する会誌「ゴシュケビッチ」を発行することにしました.まだ未刊ですが今年は発刊できると思います.さらに本会の連絡誌として「ちゃっきりむし」を発行してます.会の行事や計画,情報をお伝えしてます.巻頭には昆虫に関する方の自由闊達なご意見を載せてます.皆さんの本会に対するご意見や考え,要望をお寄せください.

 本会は,現在会員が275名ほどですがこれから皆さんと会員を少しでも増やしてゆきたいとお願い申し上げます.とくに,昆虫少年の年代の方から昆虫青年の方たちを勧誘して入会していただきたいと考えてます.皆さんの友人で本会に入ってない方にはぜひ声をかけてください.皆さんと会員300名を目指して勧誘に努めますので宜しくお願いします.

 わたしの任期中は楽しい会でありたいと願ってますので,会員皆様のご指導ご鞭撻をよろしくお願い申し上げます.

 ちゃっきりむし No.153 (2007年9月15日)

  奄美大島にて 福井順治

 今年(2007年)の夏は,8月7日〜11日のわずか5日間であったが,思いがけずに奄美大島の昆虫を見ることができた.実は,周到に計画されてきたはずのロシアへの遠征計画が,7月末になってつぶれた.その代わりがどうして奄美なのか? そもそもこんな時期に奄美にどんな昆虫を調べに行ったのか? 結局のところウォッカが黒糖焼酎に代わっただけではないのか? これらの外野からの素朴な疑問には,自分もなぜ(名瀬)なんだと言うしかない.7月末からあわてて航空券は確保したものの,その時点では奄美の昆虫の情報はもちろん,現地の地理すらまったくわかっていなかった.なにしろ今回一緒だった4人ともが奄美大島は今回が初めてなのであった.ところが,その1人はさすが老舗の昆虫同好会「静昆」の新会長北條篤史さんである.その広い人脈をたどってやはり横綱級の昆虫同好会「鹿昆」の会長さんを通じて,宿の情報ばかりでなく奄美大島在住の虫屋さんの案内までとりつけてしまった.金井賢一さん,松比良邦彦さんには採集ポイントの案内にとどまらず,魅力的な奄美の昆虫の話はもちろん,島料理や焼酎の銘柄,お勧めの店や土産までいろいろ教えていただくことになった.充実した楽しい日々が過ごせたのは,お世話になったこのお2人のおかげであったと深く感謝している.

 「東洋のガラパゴス」という言葉をご存知だろうか.奄美諸島,沖縄・八重山の島々など南西諸島の動植物は大陸,あるいは九州以北の本土との共通祖先をもつ近似種が分布しながら,島ごとに種分化が進んで隔離による進化の姿を示していることを言ったものである(小笠原諸島のことも同様に表現されている).トンボ類でも,奄美大島にはアマミトゲオトンボ,アマミサナエ,アマミヤンマなどの特産種(特産亜種)がかなりいる.さらに南方系の魅力的なトンボ類も待っている.今回,「昆虫の図鑑 採集と標本の作り方」(南方新社)を持って行ったが,この本は鹿児島県を中心に九州全体と沖縄県を視野に入れて作られていて,この旅行には最高最適の図鑑であった.

 さて,今夏は九州以北では各地で連日猛暑日が続いていたが,出かけた頃の奄美諸島や沖縄では台風や熱帯低気圧で曇りや雨の日が続き,滞在中は毎日雨が降ったり止んだりを繰り返していた.それでも雨の降り方は熱帯的でザッと降ったと思うとすぐに上がるので,時々顔を出す太陽の光に誘われてチョウやトンボが姿を現すという感じであった.このため,奄美特有のカラスアゲハがよく飛びアカボシゴマダラも滑空していた奄美大島北部の蒲生崎でも,リュウキュウアサギマダラやカバマダラが集まっていた笠利崎の近くの植物園跡でも,オオメトンボが水面すれすれに飛び回っていた龍郷町長雲峠の小さな池でも雨の洗礼を受けた.南部の宇検村・瀬戸内村を回りながら,道路沿いのハイビスカスの花でツマベニチョウを追ったり,アランガチの滝で奇妙に青みがかった眼のオニヤンマをゲットしたり,高知山展望台でオオシマゼミの金属的な声を聞いたりした時も雨の合間の採集という印象が強かった.そんなわけで天気に恵まれなかった割にはいろいろな昆虫に出会えた方だと思っている.

 名瀬市を離れて過ごした2日目〜4日目は,大和村の山中にある森林公園,「フォレストポリス」のバンガローに宿泊した.朝夕の食事は自炊であるが,同行の城内穂積さんがコック長となり,名瀬市のスーパーで買い込んだ食材を手際よく調理してくれた.そのためとても奄美の山中とは思えない手の凝った料理と,奄美ならではの黒糖焼酎での酒宴が続くことになった.平井克男さんは入念にバナナトラップを仕掛けたがこれは不調で,アルコールトラップにかかったのは人間だけという格好となった.

 フォレストポリスは亜熱帯の自然を満喫できる施設である.特に水辺の広場は,広大なビオトープのようなもので,リュウキュウベニイトトンボ,リュウキュウギンヤンマ,ベニトンボ,アオビタイトンボなどがたくさん見られた.水源はこの盆地を流れる住用川の清流であり,有名な「マテリヤの滝」もすぐ近くにあるので,これらの流れにすむアマミルリモントンボ,リュウキュウハグロトンボ,チビサナエ,ミナミヤンマ,ヒメミルンヤンマなども見られて,トンボの観察にとっては最高の場所であった.

 最高峰の湯湾岳周辺は,貴重な動植物の宝庫でもある.そこで,何度も登山口や展望台までは林道を走らせてみたが,そのつど天気が崩れてしまいついに山頂までは行かれなかった.ここでは林道に出てくる大きなルリタテハ,渋いデザインのアマミハンミョウ,アカショウビンなど奄美大島の野鳥,巨大なヘゴなどの亜熱帯の植物,奄美固有種らしい巨大なカンアオイの仲間などが印象に残っている.夜間に山に行けばアマミノクロウサギも見られるとのことであったが,日本で一番ハブがたくさん生息している島と言われていることへの恐怖感や,不覚にも夕食時のアルコールトラップにかかってしまって車の運転ができなくなったことで断念した.それでも夜も,鳴き交わす野鳥の声を聞いたり,日本で一番美しいカエルといわれるイシカワガエルを撮影したり,キイロスジボタルの鑑賞のために水辺の広場を歩き回ったりして十分に楽しむことができた.

 最後に寄ったのは奄美大島最大の「箱モノ」と言われる施設の「奄美パーク」であった.時間も少なかったので北條さんの当初からの希望で「田中一村記念美術館」の常設絵画展だけを鑑賞した.作品「奄美の杜」の精緻な描写には,一村が魅せられた奄美の自然が息づいていた.奄美を一周したあとだけにうなずきながら見入っていた.

 ちゃっきりむし No.154(2007年11月17日)

  頂いた古い写真が語るものから 宇式和輝

 机の引き出しに入れていて,近時時折出して眺める写真がある.いずれも撮影されたのはずっと昔のことだが,焼付けされたのはそう古いことではない.それは,1枚と5枚の二種類のモノクロの写真で,どちらも「これ,持ってる?」との言葉と共に,数年前に別個の友人から頂いたものである.1枚は如何にも昔を感じさせる,ピントも良くないうえに若干ブレていて,写真としてはお世辞にも良い写真ではない.そうであっても私にとっては実に大事なものであり,多くの想い出を語ってくれるものなのである.片方の5枚の方はそれとは全く違って,見るからに中版(当時のことだから多分二眼レフ)で撮ったと分かるキチッとした描写の写真で,同じ場所でアングルを変えて撮ったものだから5枚で一組といったものだが,これもまた懐かしい昔話をしてくれる.

 それぞれの写真には撮影年月日や撮影場所の記載がない.それでもじっくり写真を見て行けば,自ずと撮った年と場所までも語ってくれるのである. まず,1枚の方だが,これが私の知る限り「静岡昆虫同好会」のメンバーの集合写真で最も古い時のものと思っている.これには22人が写っていて,若き高橋真弓氏と故細谷恵志氏が会の中核であるのは写真でも一目瞭然,他は社会人お一方を除いて皆高校生や中学生である.何とこの写真の私はその中学生であって,東中学校の制帽を被っている.1年先輩にあたる諏訪哲夫氏らは高校の帽子で,こうした状況は1年間しかない訳で,ここから私が中学3年の時,つまり1958年に撮影されたものだよと語りかけて来る.浅間神社近くでの総会での写真で,当時の静昆はこうした本当に「若い」集まりだったのである.

 ところで,私には肝心の静昆にいつ入会させて貰ったのか,というはっきりした記憶や記録がない.手元に駿河の昆虫17号附録「会員名簿(1957年4月1日現在)」というのがあって,それには入れて貰っているから,それ以前ではあろう.半世紀前には会員であった訳で,長い時間経過を思い知らされる. チョウを夢中でやっていた当時を思う時,二人の大切な人物との触れ合い,二つの忘れられないチョウとの時間,二つの苦しかった山がある.いつ入会させてもらったのかはっきり分からないのには,最初の二人の人物とも大いに関係する.先ず一人は故石川由三氏で,年上ながら家も近くチョウ以外の趣味も同じだったこともあって気が合った.私が中学生だったころには,当時大川村の日向までも自転車二人乗りで行ったりしたことは実に懐かしい想い出である.そして,もうお一方が高橋真弓氏で,既に中学生に成り立ての頃には当時安東本町にあったご自宅に,よく石川氏と一緒に或いは一人でお邪魔して,二階を占領し標本を見せて頂いたり,チョウについていろいろ教えて頂いていた.この時にチョウの「分布」という概念を初めて持ったのであって,ウスバシロチョウが何故(静岡県で)大きな川流域しかいないのか,ギフチョウのいるのは…当時としてはごく一部の人しか知らない知識を齧った随分ませた中学生であった訳である.これこそ最初がどういうきっかけでお邪魔させてもらうようになったのか,今となっては定かではない.静昆の会員である前に,門下生であったのである.

 二つ目の「チョウとの時間」の一つは,1959年初のテント持参単独行での安倍奥調査時で,ゼフィルス乱舞とそれに続くミヤマシロチョウの採集.嬉しい一方信じて貰えるようにと,敢えて半ば生かしたまま三角紙に入れて持ち帰ったことが思い浮かぶ.この頃の安倍奥は道路もお粗末そのもので一寸纏まった降雨で土砂崩れし,小型のボンネットバスは徒歩連絡が珍しくなかった時代であった.もう一つが1960年の甘利山・千頭星山単独行での夥しい数のベニヒカゲで,先日十数年ぶりに当時の高校生物部誌「?高生物」に掲載の紀行文を,改めて恥じ入りながら読んだ次第だが,あの『ベニヒカゲの中を泳いでいる』との表現だけはよく言い当てていて妙と感じたものである.

 三つ目の苦しかった山行は,一つは六郎木から登り井川峠で採集,勘行峰・大日峠経由口坂本から上落合までの一日ルート.最終バス時刻もあって口坂本〜上落合は殆どマラソン状態であった.そして,南アルプスの両俣小屋からの北岳直登.前日の厳しい行程もあって,二尺二寸のキスリングを背負っての半分懸垂のような登りは実に苦しかったが,考えてみるとその何れもが前述の故石川由三氏との山行であった. さて,もう一方5枚組みに話を移そう.これは,現幹事の大石幸雄氏からの贈り物であり,高校の部室でアオスジアゲハの表紙の部誌を手に部員皆で撮った写真である.この表紙は第2号であるから,撮ったのは1960年のことである.前年部誌1号は部費も少ない中,何とか発行しようと自分たちでガリ版切りから印刷・製本までやって発行した.そして,何とか継続しようとしての2号発行時の喜びの顔が並んでいる.当時は静昆の活動の下支えのように,県下の高校生物部で競うかのごとく活発な活動があり,それぞれに部誌も発行していたのである.藤枝東高の「GEMMA」,富士高の「すいれん」,静岡市立高の「自然の友」,そして静岡高の「?高生物」等々で,資料としての価値の高いものも少なくい.

 現今の教育の在り方で,高校での生物部はどうなっているだろう.既に絶滅していたり,絶滅危惧種になっている可能性は高いと考えられて仕方がない.

 静岡昆虫同好会が55周年を迎え,祝賀の宴が持たれる直前の「ちゃっきりむし」になる筈で,敢えて古い時代のことを古い写真が語るままに書いてみた.今後も『駿河の昆虫』No.1の「同好会発足に当たって」の初心を忘れず,温故知新,「楽しく,活発な,充実した」静昆の発展を期待してやまない.